与謝野晶子は、恋愛を情熱的かつ官能的に表現した歌集「みだれ髪」で知られる女流歌人です。
与謝野晶子の晩年と最期について紹介します。
与謝野晶子とは?
与謝野晶子は老舗の和菓子屋に生まれ、子どもの頃から古典や小説に親しんでいました。
やがて店番をしながら短歌を作り、雑誌に投稿するようになります。
与謝野鉄幹と知り合い恋人同士となりますが、鉄幹には妻がいたため不倫関係でした。
鉄幹が創立した「明星」に短歌を発表します。
そして鉄幹を追いかけて上京し、二人は結婚することになります。
歌集「みだれ髪」を発表すると、世間に一大センセーションを巻き起こしました。
与謝野晶子はロマン主義文学の中心的な人物となっていきます。
与謝野晶子の晩年
与謝野晶子は、晩年も精力的に様々な活動を行いました。
その1つが評論家としての活動で、女性の自立や教育、政治といったテーマで評論を行っています。
晶子自身が数学を得意としていたので、女性も自然科学を学ぶべきだというような主張もしています。
また、夫の与謝野鉄幹や建築家として知られる西村伊作、画家の石井柏亭らとともに文化学院の創設にも携わりました。
国の学校令によらない自由で独創的な学校を掲げており、日本で初めて男女共学を実施した学校でもあります。
与謝野晶子は文化学院の女学部長に就任します。
以前、与謝野晶子と鉄幹夫妻はパリに赴いたことがあり、それが女性教育の必要性を感じるきっかけになったともいわれています。
与謝野晶子の最期
与謝野晶子は、63歳の時に脳内出血を起こしました。
それにより右半身が麻痺してしまいます。
その2年後、狭心症及び尿毒症を発症して荻窪にあった自宅において亡くなりました。
享年65です。
夫である与謝野鉄幹との関係
与謝野鉄幹と知り合った時には、鉄幹は既婚者でした。
二人は不倫の関係に陥りますが、それが明るみになって誹謗中傷にもさらされています。
しかし、鉄幹との恋愛が与謝野晶子の文学の源になったことは間違いなく、名作「みだれ髪」は鉄幹なしでは生まれなかったといえるでしょう。
また、鉄幹は女性にモテる男だったようで、晶子以外にも女性問題を何度か起こしています。
夫婦になってからは12人の子どもに恵まれました。
歌人としての才能を開花して世間からも高く評価されていく晶子に対して、鉄幹の方はスランプに陥ります。
妻の栄光を目の当たりにし、鉄幹は複雑な思いを抱きました。
元々は師匠と弟子のような関係だったのが、立場が逆転したからです。
それでも晶子が夫を深く愛していたのは間違いなく、鉄幹が亡くなった際には悲痛な追悼の歌を詠んでいます。
まとめ
与謝野晶子は女性が性愛を表現することがなかった時代に、官能的な歌を自由奔放に詠んだ「みだれ髪」を発表します。
それは世間に大きな衝撃を与えました。
晩年も創作活動を続け、評論や教育活動も積極的に行います。
そして65歳の時に亡くなりました。