「安国寺恵瓊」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「安国寺恵瓊」の死に際とは?日本の人物

1600年(慶長5年)、関ケ原の戦い。

徳川家康の東軍が勝利した後、西軍の石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人が斬首されました。

三成と行長は西軍で主導的な役割を果たしていたため、当然の処分と言えます。

一方、恵瓊は総大将・毛利輝元の家臣です。

なぜ彼は命を奪われたのか。

今回は、安国寺恵瓊の晩年や最期を紹介します。

「安国寺恵瓊」とは?簡単に説明

安国寺恵瓊は、安芸の守護・武田氏の生まれということは分かっていますが、生年や父親については諸説あり、はっきりしていません。

1537年(天文6年)か1539年(天文8年)に生まれたと言われています。

1541年(天文10年)、安芸武田氏が毛利元就に滅ぼされると、幼い恵瓊は安国寺に預けられ、出家しました。

僧の修業をする一方で、毛利氏とつながりを持つようになり、やがて、外交僧として毛利氏に仕えました。

1585年(天正13年)、毛利氏が豊臣秀吉に臣従した後は、秀吉の側近としても活躍しました。



「安国寺恵瓊」の晩年

秀吉の死後、徳川家康の指金で天下が再び乱れ始めると、恵瓊は、家康討伐を画策する石田三成に協力し、恵瓊の主君である毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出しました。

しかし、毛利の重臣・吉川広家が東軍(家康)と内通しており、毛利の進軍を阻んだため、毛利勢も恵瓊も戦闘に参加することはありませんでした。

結局、西軍は敗北しました。



「安国寺恵瓊」の死に様

西軍が敗北すると、安国寺恵瓊は毛利本陣へ戻ります。

この時、毛利を西軍に参加させた責任を感じていた恵瓊は「切腹する」と申し出ました。

しかし、吉川広家が「毛利家のことは私に任せろ。

お前は逃げろ」
と諫めたと言われ、恵瓊は京へ逃亡します。

京の寺などを転々としていた恵瓊ですが、結局は捕まり、六条河原で斬首されました。

「安国寺恵瓊」の死に様の信憑性

関ヶ原の戦いに関する記録は、戦後処理も含めて、東西両軍の関係者によって多く残されているため、恵瓊の死に様についての信憑性は高いと言えます。

「安国寺恵瓊」の小ネタ

安国寺恵瓊をさらに見て行きましょう。

「安国寺恵瓊」はなぜ殺されたのか

安国寺恵瓊は、毛利輝元に仕える僧に過ぎません。

総大将の輝元は領地を大きく減らされるなどの重い処分を受けたものの殺されなかった一方、恵瓊は首を切られました。

なぜ、彼は殺されたのでしょうか。

それは、石田三成同様、恵瓊が西軍の首脳的な役割を果たしたからでしょう。

恵瓊の働きが無ければ、毛利輝元が西軍総大将にならなかった可能性があり、展開は変わっていたと考えられます。

毛利の一家臣の恵瓊が、ここにきて主君の意思とは別のところで動いたことが、彼の運の尽きだったのかもしれません。

予言者・安国寺恵瓊

恵瓊は、織田信長の破滅と羽柴(豊臣)秀吉の飛躍を言い当てたと言われています。

1573年(天正元年)、恵瓊は「信長の代は5年か3年か続くが、その後は転落するだろう。

藤吉郎(秀吉)は見所がある」
と予言しています。

1573年は、信長が足利義昭と敵対し始めた時期で、恵瓊は、その後の信長の苦境と秀吉の活躍を予言したのかもしれませんが、最終的に、信長は本能寺の変で倒れ、秀吉は天下を取りました。

まとめ

安国寺恵瓊の晩年や最期について紹介しました。

当時の僧は、大名などに仕え、外交などの役割を担うことがあったのですが、毛利での外交僧としての活躍、関ヶ原での暗躍、信長や秀吉の行く末を言い当てたことなど、恵瓊が図抜けて優秀かつ先見の明のある外交僧だったことは間違いありません。

最後の最後で勝ち馬に乗れなかった恵瓊。

首を切られる間際、彼は何を思っていたのでしょうか。

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