「青山孝史」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「青山孝史」の死に際とは?日本の人物

「青山孝史(あおやまたかし)」青山孝史とは?

の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「青山孝史」とは?簡単に説明

青山孝史は1970年代を代表する男性4人組のアイドルグループ「フォーリーブス」のメンバーの一人です。

青山のほかに北公次、江木俊夫、おりも政夫がメンバーで、1967年4月1日結成、1978年8月31日解散と11年あまり続きました。

解散から24年後の2002年に再結成を果たしています。

これを機に青山はこれまで名乗っていた芸名の「青山孝」「青山孝史」に改名しています。



「青山孝史」の晩年

全国ツアーの構成についての話し合いが2008年10月中旬に行なわれますが、その席にいた青山の体調が優れず、その翌日に病院で検査した結果、肝がんであることが発覚します。

メンバーには11月後半に告げた上、その後のコンサートにも病をおして参加し続けます。

しかし、行なわれたクリスマスコンサートでは2時間のステージのうち立っていられるのは30分程度が限界でした。

それでもコンサートのたびに入院先の病院を抜け出して参加していました。

周りはコンサート出演を止めて療養に専念するように進めるも、本人の強い希望で以降5回もステージに立ったと言います。

なお、同年9月の時点でめぐみ夫人は肝がん告知を受ける1ヶ月前に検査を受けた時点で医師より「もって3ヶ月」と言われていたそうで、告知よりも1ヶ月も長く生きられたのは、コンサートに出たいという青山の気力が病気を上回ったからと夫人やメンバーは考えています。



「青山孝史」の死に様

青山孝史は2009年1月16日に肝臓がんであることを公式発表します。

しかし、公式発表のわずか12日後の2009年1月28日午前7時、肝がんのため入院先の都内の病院で亡くなります。

57歳でした。

1月19日には長女の誕生日に合わせて一時帰宅して誕生パーティを開いており、元気になったら一緒にハワイに行く約束もしていました。

しかしこの約束は二度と果たせないことになります。

1月28日午前2時頃、青山の容体が急変します。

同4時頃には吐血し、同7時にめぐみ夫人と10歳の長女に見守られながら静かに息を引き取ります。

悲報を聞いて急ぎ病院に駆けつけたメンバーの江木俊夫は青山に声をかけるも返事がないと目を潤ませていました。

「青山孝史」の死に様の信憑性

青山孝史は療養中の病院ないで家族に看取られて亡くなっていますので、死に様の信憑性は高いと思われます。

死因も告知された病名と同じですので問題ありません。

青山はうウィスキーをはじめとした酒好きで有名でしたが、それが肝臓を悪くする要因になった可能性は十分あります。

まとめ

フォーリーブスは結成当初、北公次、江木俊夫、おりも政夫、永田英二の4人がメンバーでしたが、永田が当時小学校6年生で年齢が低すぎるという理由で、結成半年後に青山孝史と交代することで参加しています。

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