「伊達稙宗」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「伊達稙宗」の死に際とは?日本の人物

伊達稙宗は、東北地方で一大勢力となった伊達氏の基礎を築いた人物として知られます。

その晩年と最期について詳しく紹介します。

伊達稙宗とは?

伊達稙宗は伊達氏の第14代当主で、伊達尚宗の嫡男として誕生しました。

伊達氏の第17代当主となったのは、東北の覇者として有名な伊達政宗です。

稙宗は父が亡くなったことで跡を継ぐと、陸奥の守護職に任じられるなど中央政権との結びつきを強めます。

周辺の氏族との抗争を繰り広げ、婚姻による外交も行いながら勢力を徐々に拡大していきました。

分国法である塵芥集や段銭帳を制定し、伊達氏の礎を築き上げます。



伊達稙宗の晩年

伊達稙宗は晩年、息子である晴宗と対立します。

天文の乱と呼ばれる内乱が起き、6年にもわたって争乱が繰り広げられました。

天文の乱が勃発したきっかけは、晴宗が稙宗を鷹狩りに出かけた際に襲い掛かったことです。

稙宗と晴宗は、かねてから意見が対立していました。

多くの子ども達を近隣に送り込み勢力を大きくしてきた稙宗は、今度は三男の実元を越後の守護である上杉定実の養子にしようともくろみます。

それに反対したのが晴宗で、稙宗に不満を抱いていた重臣の中野宗時や桑折景長を味方にし実力行使に出たのです。

また、晴宗は稙宗が長女の夫である相馬顕胤に、伊達氏の領地の一部を分け与えようとしたことにも反対していました。

晴宗によって捕らえられた稙宗は城に幽閉されてしまいますが、家臣であった小梁川宗朝によって救い出されます。

そして、周りの勢力を巻き込む内乱に発展しますが、晴宗方が優勢となり和睦する形で晴宗に家督を譲ることになりました。

この時、和睦を仲介したのは将軍足利義輝だったといいます。

稙宗は隠居して丸森城に移りました。



伊達稙宗の最期

丸森城に隠居した伊達稙宗ですが、嫡男である晴宗とは不和が続いたとされます。

晴宗は米沢城に拠点を移しています。

そして永禄8年に稙宗は亡くなりました。

享年78でした。

当時としては長寿なので、死因は明らかではありませんが老衰で亡くなったと考えられます。

稙宗が幽閉された際に救い出した小梁川宗朝は、稙宗の死を悲しみ殉死したと伝えられます。

伊達稙宗をめぐる逸話

天文の乱が起きた原因は息子である晴宗との意見の対立ですが、家臣たちの間で稙宗に対する不満が溜まっていたことも大きく影響しています。

稙宗は家督を継ぐと、次々に蔵方之掟・塵芥集・棟役日記・段銭古帳を制定し、税制の整備や体制の強化に努めました。

稙宗の強権的な政策に不満を抱く人も多かったと考えられ、それが内乱の遠因となったのです。

ただし、稙宗の手腕は政治家という視点で見ると高く評価されています。

まとめ

伊達稙宗は晩年、嫡男である晴宗と対立し天文の乱を起こします。

6年にわたって続いた内乱は周辺の諸侯も巻き込みましたが、稙宗側が不利な状況に陥り和睦という形で決着しました。

隠居して丸森城に移ったのです。

稙宗は丸森城において78歳で亡くなりました。

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