猛牛打線のいぶし銀「鈴木貴久」の散り際とは?
この記事では鈴木貴久の晩年と散り際について解説していきます。
「鈴木貴久」とは?簡単に説明
『近鉄バッファローズ』の生え抜きであり、“いてまえ打線”の中軸をしばしば任されていたことで知られています。
その名前が知られるようになったのは1989年の『読売ジャイアンツ』との日本シリーズだと言っていいでしょう。
平成の大エース「斉藤雅樹」氏から放った同点ホームランはその後の3連勝を引き寄せるものとなりました。
打率、打点ともに突出した年は少ないもの、勝負強さをかわれ、クリーンアップ後の6番に鎮座することが多かった選手です。
「鈴木貴久」の晩年
元々打率はさほど高くなかったもの、1999年には「タフィ・ローズ」氏に加え「礒部 公一」00年には「川口憲史」両氏、若手の台頭により出場機会は激減。
同年を持って現役を退いていますが、引退試合が行われており円満な引退であったのは間違いないでしょう。
引退後は「梨田昌孝」監督政権下にて2軍打撃コーチに就任。
03年には「坂口智隆」氏を指導。
近鉄でこそ花開きませんでしたが、その後坂口氏が20年間NPBで現役を続ける礎を築く手助けをしたとされています。
「鈴木貴久」の死に様
2004年5月17日1時7分に大阪府八尾市の八尾徳洲会総合病院で永眠しています。
40歳没。
死因は急性気管支肺炎によるものでした。
「鈴木貴久」の死に様の信憑性
15日鳴尾浜での『阪神タイガース』戦前に体調不良を訴えて、平野区の自宅に帰宅。
1日経過しても体調不良が続くとその日の夜に容態が急変。
緊急搬送後わずか30分で息を引き取ったとされます。
しかしそれ以前に1週間前に風邪の様な諸症状が発現し、だるさを訴えていたことが明らかにされました。
また14日の深夜には愛犬と散歩中に車を避けて転倒していた事実も発覚。
その影響から翌日は腰の痛みと吐き気を訴えて帰宅する運びになりました。
しかしこれらの事案と急逝の因果関係は不明のまま終わっています。
当時の大手スポーツ紙3紙と関西系の『デイリースポーツ』でも同様で事実は掲載したもの、その後については公表されていません。
まとめ
2004年5月17日1時7分に大阪府八尾市の八尾徳洲会総合病院で死去。
40歳没。
死因は急性気管支肺炎によるものでした。
15日の午後に腰の痛みと吐き気を訴えて、鳴尾浜球場でのウエスタンリーグ戦の雨天中止を待たずに帰宅。
16日は1日静養にあてるも、夜になって容態が急変しています。
病院に運ばれたのは日付の変わった17日0時30分過ぎ、それから30分程度で帰らぬ人となりました。
1週間前に怠さを訴えていましたが、本人は風邪だと思っていたようです。
14日深夜に犬と散歩に出かけ、車を避けて転倒したと言われますが、翌日の吐き気や腰の痛みとの因果関係は不明のままに終わっています。