ピンクレディー、ジュリーで時代を席巻「阿久悠」の散り際とは?
この記事では阿久悠の晩年と散り際を解説していきます。
「阿久悠」とは?簡単に説明
特に70年代における存在感は圧倒的。
演歌の「都はるみ」男性歌手の「沢田研二」アイドルの「ピンクレディー」で3年連続レコード大賞受賞曲に携わっています。
また特撮の『ウルトラマンタロウ』高校サッカーテーマ曲『ふり向くな君は美しい』などジャンルは多岐に渡る一方。
その反面「山口百恵」に楽曲提供する機会がなかったのは、今でも両者のファンから語り草になるほどの謎になっています。
総シングル売上枚数は「秋元康」氏に抜かれましたが、2位の座は揺るぐことはないでしょう。
「阿久悠」の晩年
80年代に入りシンガーソングライター、ニューミュージックの台頭。
また85年の『おニャン子クラブ』のデビューに携わった「秋元康」氏の台頭もあり、作風が社会にフィットしなくなり、ヒットメイカーとしての存在は薄れていくことになりました。
しかし作詞家としての矜持もあり、懐メロ番組、当時を回顧する番組へのオファーを断り続けていたと言います。
80年代からは小説の執筆活動に重きを置くと『瀬戸内少年野球団』は「夏目雅子」「田原俊彦」「鈴木保奈美」諸氏主演で3度映像化。
しかし悲願の直木賞には届くことはありませんでした。
「阿久悠」の死に様
2007年8月1日5時29分に東京都港区の東京慈恵会医科大学付属病院で死去。
70歳没。
死因は尿管癌によるものでした。
「阿久悠」の死に様の信憑性
2001年に腎臓癌が発覚、以降は厳しい闘病生活を続けるようになっていました。
05年には膀胱癌、06年にはリンパ節にまで転移が発覚。
癌は末期的な症状になったうえ、週に数回の人工透析が必要になるほどに腎臓の状態は悪化しています。
それでも仕事は精力的に続けており、かつてはオファーを断っていた昭和歌謡曲の解説番組などで姿を見ることもできました。
81年の元旦以降日記を1日も欠かさずつけており、没後に『不機嫌な作詞家 阿久悠日記を読む』として出版されており、そこで病状や心境も知ることができます。
6月10日のラジオ収録3本録りが2本になったあたりから体調が目に見えて悪化。
仕事を休業したのは6月末のことでしたが、日々の日記が途絶えるまでは意識もしっかりしており、見舞客の応対もできていたことが明らかになりました。
日記が途切れたのは07年の7月15日のこと。
この日を境に日記が書けないほど容態が悪化したと推測できます。
まとめ
2007年8月1日5時29分、東京都港区の東京慈恵会医科大学付属病院で永眠。
70歳没。
死因は尿管癌によるものでした。
晩年は01年の腎臓癌を皮切りに膀胱癌、尿管癌とジワジワと癌が転移、入退院を繰り返す日々だったと言います。
亡くなる1ヶ月前から休業、入院生活に入るも体調は芳しくありませんでした。
亡くなる丁度2週間前の7月15日が26年半1日も休まずに書き続けた日記の最終日。
以降は日記を書く体力、気力がないほどに容態が悪化してしまったと言えるでしょう。