「林家三平(はやしやさんぺい)」とは?
林家三平の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「林家三平」とは?簡単に説明
「昭和の爆笑王」として広く愛された林家三平(初代)は東京都出身の落語家です。
7代目柳家小三治(のちの7代目林家正蔵)の長男として誕生し、本名は海老名泰一郎。
終戦によって復員後、噺家の道を目指し、芸名を林家三平と名付けられ、1946年(昭和21年)4月に初高座を果たしています。
以後、生涯林家三平のままの芸名を貫き、「どうもスイマセン」や「よし子さ~ん」などの流行語でお茶の間の人気を博しました。
「林家三平」の晩年
1958年(昭和33年)10月に真打ちに昇進し、その後待望の跡継ぎ(のちの9代目林家正蔵やのちの2代目林家三平)も誕生するなど、順風満帆な人生のように見えます。
しかし、1978年(昭和53年)5月に起きた落語協会分裂騒動で三平は大きな岐路に立ちます。
けれども師匠の新団体参加表明には同道せず、逆に師匠の脱会撤回の説得に成功して協会分裂の危機を阻止する立役者になっています。
「林家三平」の死に様
林家三平は1979年(昭和54年)正月に脳内出血で倒れ、東京逓信病院に入院します。
1週間の昏睡後、右半身が麻痺し言語症が生じて再起不能と囁かれます。
しかし、壮絶なリハビリを行なった結果、同年10月には高座に復活するのでした。
1980年(昭和55年)9月18日に肝臓ガンで再度東京逓信病院に入院し、その2日後の9月20日に家族や親族、一門が見守るなか死去しています。
まだ54歳(享年56)という若さでした。
同年9月7日の上野鈴本演芸場が最後の高座となっています。
「林家三平」の死に様の信憑性
林家三平の妻・海老名香葉子によると、三平は9月18日に入院した際、医師から「余命1年」と言われていたそうです。
それが「余命半年」「余命3ヶ月」と変わっていき、結局入院して3日目の9月20日に急逝します。
実は前年、脳内出血で倒れたときも同じ病院でリハビリをし、毎月検査もしていたそうです。
それにもかかわらず、肝臓ガンは見落とされていたのです。
この件は医師側も認め、見落としていたことを家族に謝罪したということも香葉子は話しています。
まとめ
当時、テレビで林家三平の高座や出演番組などを見る機会が多くありました。
それほど人気を博しており、客席前列のお客様と直に話をするようなフレンドリ過ぎるパフォーマンスに驚くと共にサービス精神の高さに感心し、誰でも親近感の持てる稀代の落語家だったように記憶に残っているのが林家三平です。