新日本プロレスの礎を故アントニオ猪木らとともに築いた山本小鉄の最期とは?
「山本小鉄」とは?簡単に説明
山本小鉄、多くの人が持つ彼の印象は新日本プロレスの解説者やレフェリーとして覚えている方は間違いないでしょう。
タイガーマスクが社会現象になった80年代前半のワールドプロレスリング中継における古舘伊知郎との掛け合いは当時の多くの少年達に真似をされたものです。
プロレスファンには新日本プロレス道場のコーチ・鬼軍曹としても知られ、多くの選手が彼のもとで育ちました。
90年代の格闘技ブームを支えた前田日明、高田延彦はもちろんのこと闘魂三銃士、蝶野正洋・武藤敬司・橋本真也らとの話は有名です。
「山本小鉄」の死に様
00年代に入り、格闘技ブームなどの波に飲まれ新日本プロレスは人気が低迷していきます。
この頃には既に新人・若手の指導役からは外されており、閑職に追い込まれていたと言っていいでしょう。
それでも身体作りは欠かさず、上半身裸でパンプアップさせていた姿を東京スポーツなどの媒体で披露していました。
さらには2008年の年末にはかつての相方である星野勘太郎とヤマハブラザーズを結成、グレート小鹿、ザ・グレート・カブキ組と激闘を繰り広げる元気な姿を見せています。
「山本小鉄」の死に様の信憑性
2010年8月28日午前6時24分、長野県軽井沢町の病院で逝去、死因は低酸素性脳症でした(享年68)夏休み恒例の家族旅行で長野県軽井沢を訪れ、娘や孫と楽しい一時を過ごしていましたが、突然の病魔が襲います。
24日の昼食後に息を詰まらせ倒れ、心肺停止となるも蘇生措置により30分後には息を吹き返しました。
しかし意識は戻らぬまま、心肺停止による脳へのダメージが大きかったのでしょう、そのまま28日早朝に帰らぬ人となっています。
死亡報道があった当日のテレビ朝日の報道ステーションでは古舘伊知郎氏が故人との若かかりし頃の思い出話を披露。
「本当にお世話になりまして、残念です。
悲しいです」と小鉄を偲んでいます。
「山本小鉄」の小ネタ等
08年の年末にコンビ再結成したヤマハ・ブラザーズの星野勘太郎は試合から2ヶ月後に脳梗塞で倒れ、肺炎を罹患し危険な状態になるも回復、かつての盟友を見送る形となりました。
しかしタッグパートナーである山本小鉄を追うかのように同年11月25日に入院先の病院で逝去しています(享年67)
まとめ
山本小鉄は2010年8月28日午前6時24分に長野県軽井沢町の病院で亡くなりました。
心肺停止後に蘇生処置により30分間で自己心拍が再開したあとの虚血・再灌流障害による低酸素性脳症からは回復できなかったようです。
奇しくもヤマハブラザーズのタッグパートナーである星野勘太郎も彼の後を追うかのように、ほぼ3ヶ月後の同年11月25日息を引き取っています。