長岡外史は明治から昭和を生きた陸軍軍人で、政治家としても活躍しました。
長岡外史の晩年と最期を紹介します。
長岡外史とは?
長岡外史は周防国の大庄屋の家に生まれ、徳山藩士である長岡南陽の養子となります。
長州藩の藩校であった明倫館で学び、陸軍大学校を卒業しました。
日清戦争に参加した際には、大島混成旅団の参謀を務めています。
日露戦争では大本営陸軍部参謀次長を務め、樺太占領作戦を提案します。
これはロシアとの講和を進めるために、ロシア領であった樺太に侵攻して占領する作戦です。
軍の首脳は最初は否定的でしたが、長岡の説得もあって樺太作戦が決定しました。
結果的に、この作戦は日本に有利に働いています。
長岡外史の晩年
長岡外史は日露戦争後、軍務局長となって陸軍中将に昇進しました。
その後、第13師団長、第16師団長を務めています。
1924年に衆議院議員総選挙で立候補し、当選して政治家に転身しました。
長岡外史の最期
長岡外史は、1933年に慶応義塾大学病院に入院しました。
膀胱腫瘍があったためです。
治療を受けていましたが、入院してから数か月後に容態が急変し亡くなりました。
享年76です。
長岡外史をめぐる逸話
長岡外史は好奇心が旺盛で、新しい物や珍しい物が大好きでした。
第13師団長を務めていた時には、ヨーロッパを訪れた際に知ったスキーを導入することにします。
オーストリア・ハンガリー帝国から訪れていたレルヒ大佐が指導者となり、軍人達にスキーを学ばせたといいます。
日本に初めてスキーを紹介した人物こそ長岡外史なのです。
長岡外史の髭
長岡外史は残されている写真からも分かる通り、横に伸びた独特の形をした大きな髭をたくわえています。
これはプロペラ髭と呼ばれており、最長では70㎝にもあったといいます。
長岡自身はこの髭を気に入っており、人に自慢することもありました。
写真撮影する際も、大きな髭を整えてから撮影に臨んだといいます。
髭を整ていたのは椿油です。
髭を切らなくなったきっかけは、八条島市長から特産品の椿油を髭のために進呈されたからという話もあります。
飛行機の普及に尽力
長岡外史は、日本の飛行機開発の先駆者として知られる二宮忠八の功績を伝え飛行機の普及を図るために国民飛行協会を設立しました。
長岡は以前、二宮が軍に飛行機の開発への協力を求めてやってきた時に、それを一蹴したことがあります。
当時は、空を飛ぶ乗り物が実現するなど夢にも思えないことだったからです。
しかし、世界ではライト兄弟が有人動力飛行に成功します。
着想段階では二宮の方が先行していたことを後で知った長岡は、二宮に会って直接謝罪したといいます。
まとめ
長岡外史は陸軍軍人から衆議院議員に転身し、明治から昭和の時代を生き抜きました。
日本に初めてスキーを紹介したり、大きなプロペラ髭を自慢するなどユニークな人物だったようです。
そして76歳で亡くなりました。