中山博道は日本を代表する武道家の一人で、明治から昭和にかけて活躍しました。
中山博道の晩年と最期を紹介します。
中山博道とは?
石川県金沢市の生まれで、5歳の時に富山市に一家で移住します。
そこで山口一刀流を学びました。
18歳の時に上京し、神道無念流の有信館の門をたたきます。
根岸信五郎から教えを受け、30歳で免許皆伝となります。
根岸の養子となり、有信館の跡を継ぐこととなりました。
また、中山博道は、剣術以外にも居合術や杖術も極め、第日本武徳会から剣道範士・居合術範士・杖術範士の称号を与えられています。
これは武道界の中では史上初の偉業でした。
中山博道の晩年
中山博道は、晩年に戦犯容疑をかけられ拘置所に収監されたことがあります。
武道の振興を目的に設立された大日本武徳会は、第二次世界大戦後にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって解散を命じられていました。
大日本武徳会は日本政府との結びつきが強く、第二次世界大戦中には政府の外郭団体となっていたからです。
解散を命じられて大日本武徳会は消滅することになり、会に関係する人々も全て公職から追放されました。
中山博道の戦犯の疑いは晴れましたが、高齢であったため拘置所生活は大きな負担となったようです。
跡を継いでいた有信館も戦後の混乱の中で人手に渡ってしまったといいます。
その後は、武道関係の名誉職などを務めました。
中山博道が亡くなったのは、1858年のことです。
享年86でした。
高齢であったために入退院を繰り返しており、脳軟化症と診断されています。
葬儀では日本剣道葬が営まれ、多くの名士が参列しました。
指導者としての中山博道
中山博道は、免許皆伝を受け跡を引き継いだ道場の有信館で多くの弟子を育てました。
また、警察や学校、企業などでも師範を務めており、多くの人に指導を行っています。
指導者としては非常に厳しく、弟子を褒めることはほとんどなかったといいます。
これは中山博道の師である根岸信五郎も同様でした。
特に我が子である善道には、殊の外厳しく接したと言われています。
ただし、弟子以外に対しては、褒めることも多かったといわれます。
中山博道をめぐる逸話
中山博道は小柄な体格で、身長は160㎝程しかありませんでした。
しかし、剣道の稽古の際に体当たりで倒されたことはなく、その足さばきは見事なものだったと言われています。
現代の剣道に多大な影響を与えた人物であることから、昭和の聖剣と呼ばれることもあります。
その一方で、中山博道は弓術や銃剣術、槍術など様々な武芸を学んでいます。
西洋剣術についても研究しており、息子の善道と一緒に著作した本も出版しています。
まとめ
中山博道は、明治から昭和にかけて活躍した名剣士です。
昭和の聖剣と呼ばれることもあり、様々な武道に通じていました。
第二次世界大戦後には戦犯として拘置所に収容されたこともありますが、疑いは晴れて赦免されています。
入退院を繰り返し、86歳で亡くなりました。