「山田顕義」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「山田顕義」の死に際とは?日本の人物

山田顕義は明治政府で司法大臣を務め、法典整備に尽力した人物です。

その晩年と最期について紹介します。

山田顕義とは?

山田顕義は、長州藩士の山田顕行の子として生まれます。

吉田松陰の松下村塾に、最年少の14歳で入塾しました。

戊辰戦争では東征大総督参謀として従軍し、各地を転戦します。

その際、西郷隆盛に用兵の天才といわれたとされ、軍事において非凡な才能を発揮しました。

明治維新後は兵部大丞に就任し、兵部省を確立することに努めます。

明治4年には陸軍少将となり、岩倉遣外使節に随行してヨーロッパを視察しました。

西南戦争が勃発すると、別働第二旅団長として活躍します。

山田顕義の晩年

山田顕義は参議、工部卿、内務卿、司法卿といった役職を歴任します。

1885年に内閣制度が発足すると、初代司法大臣に就任しました。

そして第一次伊藤内閣から黒田内閣、第一次山縣内閣、第一次松方内閣まで司法大臣として留任し続けています。

その間、法整備を積極的に推し進めます。

熱意をもって法典編纂に邁進したため、法典伯と呼ばれることもありました。

また、山田顕義は日本法律学校の創立にも大きく関わっています。

日本法律学校は日本大学法学部の前身で、日本古来からの法と外国の法を研究する教育機関になります。

山田顕義は法整備を進める上で、国典の研究が重要と考えました。

日本人の生活や習慣、言語といった国家を成立する基礎になっているのが国典だからです。

その研究のために日本法律学校の創立したり、皇典講究所の所長となって皇典講究所の改革を行ったりしました。

1891年に起きた大津事件では、犯人に大逆罪を適用するように裁判に圧力をかけたといいます。

大津事件は、滋賀県の大津町でロシア帝国の皇太子が襲われた負傷した事件です。

日本法学史上において最も重要な事件とされ、三権分立の意識が広まったのはこの事件がきっかけでした。

山田顕義は犯人へ死刑を適用するよう奔走しますが、裁判の結果は無期徒刑でした。

その1か月後、山田顕義は病気を理由として司法大臣を辞任します。

その後は療養生活を送りました。

山田顕義の最期

司法大臣を辞任して療養生活を送った後、1892年に山田顕義は枢密顧問官に就任しました。

その年の11月、生野銀山を視察中に倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。

享年49です。

死因は脳溢血だったと言われています。

山田顕義をめぐる逸話

山田顕義は用兵の天才でしたが、欧米視察中にフランスを訪問した時にナポレオン法典に出会って、それ以降は法律の研究の没頭するようになります。

法律は軍事に優先するというのが山田の考えでした。

ナポレオンは言わずと知れたフランスの英雄で、軍事の天才です。

そして、軍事だけではなく法の分野でも革命的な功績を残した人物で、ナポレオン法典は近代的法典の基礎となっています。

まとめ

山田顕義は非常に優れた用兵家でしたが、晩年は司法大臣として法整備に尽力します。

49歳の時に脳溢血で倒れ、そのまま亡くなりました。

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