二葉亭四迷は明治時代の文学者で、「浮雲」を執筆したことで知られています。
二葉亭四迷の晩年と最期について紹介します。
二葉亭四迷とは?
二葉亭四迷は、尾張藩士であった長谷川吉数の子として誕生します。
フランス語や漢学を学び陸軍軍人を志しますが、受験に失敗して外交官を目指すようになります。
東京外国語学校に進学すると、そこでロシア語を学びロシア文学に興味を持ちます。
学校を中退すると、処女作となる「浮雲」を執筆しました。
続いて「浮雲」の第2編、第3編を執筆します。
この作品は写実的な描写が特徴で、言文一致体で書かれていました。
近代小説の先駆けとなった作品で、多くの文学者に影響を与えています。
二葉亭四迷の晩年
「浮雲」を発表した後、二葉亭四迷は20年近く文壇から遠ざかっていました。
その間には内閣官報局に勤め英字新聞や露字新聞の翻訳を手掛けたり、東京外国語学校の教授を務めたりもしています。
東京外国語学校ではロシア語を教えており、在職期間は短いながらも学生たちからは慕われていました。
その後、朝日新聞に入社すると周りの説得もあり、文壇に復帰します。
「其面影」や「平凡」といった小説を執筆し人気となりました。
二葉亭四迷の最期
二葉亭四迷は、朝日新聞の特派員としてロシアに赴任します。
ロシアからペテルブルクに赴きますが、着任早々に不眠症に悩まされることとなりました。
白夜だったため、睡眠のリズムがとりにくかったことが考えられます。
そして、肺炎と肺結核を患い、日本に帰国する途中の船の上で体調が悪化して亡くなりました。
享年46です。
亡骸はシンガポールで火葬され、遺骨が家族の元に届けられました。
二葉亭四迷の名前の由来
二葉亭四迷の名前の由来は、「くたばってしめえ」にあると言われています。
父親が二葉亭四迷に対して言った言葉だという説もありますが、近年では二葉亭四迷自身が自らを罵った言葉だということが分かっています。
「浮雲」は二葉亭四迷の処女作で代表作でもありますが、本人は納得していない部分があったことが伺えます。
執筆中から文学の価値に疑念を抱き、そういった複雑な感情が己を罵ることにつながったのかもしれません。
また、発表するにあたって坪内逍遥の名を使用しており、そのことに対しても自虐的な感情を抱いていたといわれます。
二葉亭四迷をめぐる逸話
二葉亭四迷はロシア語に堪能で、ロシア文学を数多く翻訳しています。
特に有名なのは、ロシアの文豪ツルゲーネフが書いた「あひゞき」や「めぐりあひ」といった小説です。
これらの作品にみられる自然描写の表現は、多くの作家に影響を与えました。
まとめ
二葉亭四迷は代表作となった「浮雲」を執筆後、文壇からは遠ざかります。
復帰したのは20年後で、入社した朝日新聞で連載を行いました。
その後、朝日新聞の特派員としてロシア・ペテルブルクに赴任に、病を得て帰国する途中に亡くなります。
享年46でした。