「津田恒実(つだつねみ)」とは?
津田恒実の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「津田恒実」とは?簡単に説明
津田恒実は1980年代に広島東洋カープのピッチャーとして活躍した選手です。
南陽工業高校、協和発酵を経て1981年に広島カープにドラフト1位指名されて入団しています。
1年目から大活躍し、その年の新人王を獲得します。
しかし、その後はルーズショルダーや中指の血行障害など故障に苦しみます。
それでも1986年に復活し、抑えピッチャーに転向後は気迫ある全力投球をする姿から「炎のストッパー」と呼ばれるようになります。
「津田恒実」の晩年
津田恒実の頭痛などの体調不良は1990年のシーズン終了後から現れ始めます。
1991年の開幕を迎え、4月14日に不調をおして8回表に登板するも大乱調のため9球で降板、敗戦投手となります。
これが津田の生涯最後の登板となります。
翌日、広島大学病院に検査入院し、精密検査の結果、悪性脳腫瘍があることが判明します。
本人への告知はされていましたが、球団は混乱を避けるためという理由で同年5月に緊急会見を開き、「水頭症」であることを発表します。
その後、津田は自宅などでの療養を経て済生会福岡総合病院に転院し、治療に専念することになります。
以降は、次第に会話も不自由になるほどの悪い状態になったり、奇跡的な回復を見せたりと一進一退の状態が続いたようです。
1992年6月頃に再び病状が悪化し、同年8月に済生会福岡総合病院に再入院することになります。
「津田恒実」の死に様
1993年3月のオープン戦でチームが福岡に遠征した際、山本浩二監督は正田選手会長、山崎隆とともに津田の見舞いに行きますが、「津田はやせ細っていて痛ましい姿だった」とその時の様子を語っています。
それでも奇跡的な回復を願って励ましの言葉をかけたそうですが、津田恒実は1993年(平成5年)7月20日午後2時45分、脳腫瘍のため福岡市中央区の済生会福岡総合病院で息を引き取りました。
32歳でした。
家族に看取られて静かに亡くなったそうです。
その後、遺体は午後7時30分に妻の晃代夫人に付き添われて故郷・山口県新南陽市の自宅に戻りました。
「津田恒実」の死に様の信憑性
津田の死に様は2年余りの闘病生活と病院での家族に看取られての逝去ということで信憑性は確かでしょう。
津田の死因となった脳腫瘍ですが、津田の場合は悪性脳腫瘍で死亡率がとても高い病気です。
悪性の場合はがん分裂のスピードが速く、手術するにも高度な技術が必要で、当時の医療技術ではほぼ助からないという絶望的な病気でした。
そんな病気と闘い、一縷の望みをかけて闘病生活を送っていたようです。
まとめ
32歳という短い一生でしたが、それ故か、あるいは津田の生来持って生まれたあふれる闘志からか、「炎のストッパー」という異名がついた津田の闘志あふれる豪快な投球姿には今でも感動の一言です。