美空ひばりの死因は?
酒とタバコのヘビーユーザーだったことが理由?
「美空ひばり」とは?簡単に説明
昭和12年に神奈川県横浜市で生まれた美空ひばりは、わずか9歳という若さでデビューした女性歌手で、「歌謡界の女王」と称されていました。
昭和を代表する女性歌手であり、没後の平成元年には国民栄誉賞を受賞しています。
昭和30年に映画「ジャンケン娘」に共に出演した江利チエミと雪村いづみとともに「三人娘」として人気を博し、昭和37年には歌手の小林旭と結婚します。
その後、わずか2年あまりで小林と離婚したひばりは、最大の理解者である実の母の喜美枝と共に日本全国のコンサート会場やテレビ出演などを精力的にこなし始め、52歳で亡くなるまでにレコーディングした曲数は合計1,500曲、その内オリジナル楽曲は517曲にも及びました。
「美空ひばり」の晩年
昭和60年頃から、美空ひばりは原因不明の腰痛に悩まされはじめ、昭和62年の全国ツアー四国公演の巡業中には、耐えられないほどの激痛に襲われます。
同年4月には、コンサートツアー中の福岡市で極度の体調不良に見舞われ、福岡県済生会福岡総合病院に緊急入院します。
精密検査の結果、重度の慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症と診断され、その後約3か月を超える療養期間に入っていきます。
療養に専念したことで一時的に症状は改善の兆しをみせますが、肝機能数値については思わしくない状態が続き、足腰の痛みなどは回復することなく痛みを抱えたまま復帰公演へと進んでいきます。
昭和63年4月11日には、東京ドームのこけら落しとなる伝説のステージ「不死鳥コンサート」が開催され、痛みと闘いながらも、その後も全国13カ所を回るコンサートツアーをこなしていきますが、このころからひばりの身体には死因の直接の原因となる「間質性肺炎」の症状が現れ始めていたと言われており、普通に立つこともままならない状態で、歌を歌い続けていました。
痛みをこらえながら歌い、歌い終わる毎に椅子に腰を掛けて息を整えるほどの症状だったひばりは、帝国ホテルにて同年の12月25、26日の2日間にわたり、生涯最後のクリスマスディナーショーを開催するのでした。
「美空ひばり」の死に様
平成元年2月7日、美空ひばりの生涯最後のステージとなる九州厚生年金会館でコンサートが開催されますが、既にこのころ車や新幹線による移動ができないほど病は進行していたため、ヘリコプターを使って往復移動をしています。
コンサート会場に到着しても、ひばりは立っていることができず、酸素吸入器を装着して、横には常に医師が待機していました。
肝硬変の悪化による食道静脈瘤も抱えていたひばりは、歌唱をするどころかいつ倒れてもおかしくない状態でコンサートをこなしますが、コンサート中の大半はいすに座りながら歌わざるを得ませんでした。
そしてついに、1,100人もの観衆を集めた最後のコンサートで、ひばりは予定していた全20曲を無事に歌い上げることができるのでした。
翌日、2年前と同じ病院に検査入院したひばりは、一旦は退院しますがその後も入退院を繰り返しながら治療に専念します。
その治療の甲斐もむなしく、平成元年6月24日に特発性間質性肺炎の症状悪化による呼吸不全の併発により、ひばりは52歳の生涯を閉じることになります。
「美空ひばり」の死に様の信憑性
美空ひばりの52年間におよぶ人生において、1980年代に経験する親しい人たちの度重なる死は、もっとも過酷で乗り越えることが困難なできごとでした。
昭和56年には、二人三脚親子とも言われていた実の母である加藤喜美枝が68歳で亡くなり、昭和58年と昭和61年には2人の弟たちに加え、親友だった江利チエミも急死してしまいます。
この大切な人たちとの生涯の別れを立て続けに経験したひばりは、以前から使用していた酒とタバコの量が徐々に増えていきます。
また、このころからひばりの食事は、韓国系アメリカ人の医師であるハワード・ヤングの勧めにより、玄米のおにぎりと「センナ」という薬草を使ったお茶だけになっていきます。
これらの民間療法ともいえる極度な食事制限は、様々な病を併発して弱りきっていたひばりの身体には良いわけはなく、この食事制限によって死期を早めてしまったとも言われています。
まとめ
美空ひばりの歌に対する情熱は、数々の病気の苦しさをものともせず、死を迎える間際までファンに歌を聴かせ続けてくれました。
52歳という若さでこの世を去った美空ひばりは、その素晴らしい歌声と共に伝説になったのでした。