多くの士官の誘いを断った末、石田三成から破格の高禄で迎えられ、「治部少(三成)に過ぎたるもの」の1つに数えられた戦国時代屈指の軍略家「島左近」の晩年や最期について解説します。
「島左近」とは?簡単に説明
島左近は1540年(天文9年)に生まれました。
出自は明らかになっていませんが、現在の奈良県という説が有力です。
畠山家や筒井家などを経て豊臣家に仕え、石田三成から「禄高の半分」にあたる2万石の俸禄で迎えられ、三成の側近として活躍します。
ちなみに「左近」は通称で、実際の名前は「島清興」です。
「島左近」の晩年
豊臣秀吉の死後、家康(東軍)と、三成ら反家康派(西軍)による戦いが避けられない状況になると、左近は西軍を鼓舞するため、少数の兵を率いて東軍に戦いを挑みました。
関ヶ原の前哨戦と言われる「杭瀬川の戦い」です。
左近は、この戦いで勝利を収め、東軍の出鼻をくじきました。
しかし、これが彼の生涯最後の勝利となりました。
「島左近」の死に様
左近は関ヶ原の戦いで命を落とします。
彼は陣頭に立って戦いました。
戦は、布陣の有利や左近らの活躍もあり、序盤は西軍優勢で進んでいました。
しかし、小早川秀秋らの寝返りにより西軍の敗北が決定的となると、左近は黒田長政の軍勢に突撃し奮戦した後、銃撃を食らって討ち死にしました。
享年61。
島左近とその兵たちの最後の突撃は凄まじいもので、迎え撃った黒田軍の兵の中には、後に、左近たちの姿や雄叫びを思い出してうなされる者もいたと言われています。
「島左近」の死に様の信憑性
関ヶ原の戦いの後、島左近の遺体は見つかっていないため、彼の死を裏付ける確たる記録は残っていません。
そのためか「出家して僧になった」「細川家に仕えた」「百姓になった」などの言い伝えもあります。
関ヶ原で死んだ可能性が高いですが、確実とまでは言い切れません。
とは言え、関ヶ原以降、左近が歴史の表舞台に出てきていないことは間違いありません。
歯がゆかった?「主君のこだわり」
左近は、関ヶ原の戦いに際し、主君の三成に様々な献策をしています。
家康暗殺計画、杭瀬川の戦い後の東軍への夜襲などです。
その多くを、三成は一度退けるか、全く取り上げませんでした。
三成は、「卑怯な手は使わず、出来るだけ正々堂々とぶつかって勝ちたい」というこだわりがあったからです。
左近は、そんな三成に好感を持ちつつも、勝つための策が取り上げられない状況を歯がゆく感じていたかもしれません。
三成が左近の策を取り上げ、実行していたら、関ヶ原の戦いの流れや結果は、また違ったものになっていたかもしれません。
まとめ
島左近の晩年や最期について紹介しました。
左近は、三成との仲や関ヶ原での活躍など、彼の能力の高さを表すエピソードに事欠きません。
自分の人生を賭けた関ヶ原では残念ながら敗北し、歴史からその姿を消しました。
しかし、その死に様があったからこそ、「忠義に生きた希代の軍略家」として、現代に至るまで愛されているのかもしれません。