浅沼稲次郎暗殺事件を引き起こした少年「山口二矢」の死に際とは?
この記事では山口二矢の晩年と死に際を解説していきます。
「山口二矢」とは?簡単に説明
政治家を襲うテロ行為は明治以降の近代日本でもあり、2022年に「安倍晋三」氏が暗殺されたのは記憶に新しいところではないでしょうか。
暗殺までは発展しなかったもの「大平正芳」「岸信介」諸氏らは襲撃され負傷しています。
山口二矢は1960年10月12日に日本社会党の党首「浅沼稲次郎」氏を刺殺した人物です。
衝撃的だったのは刺殺犯がまだ17歳の少年であったことでした。
さらには政党代表放送中の出来事であったため、事件は更なる衝撃を呼びました。
「山口二矢」の晩年
16歳で大日本愛国党に入党。
幼い頃から右翼思想の持ち主だったとされます。
59年兄の「山口朔生」がメーデーで検挙された事に刺激を受け、さらに総裁「赤尾敏」の思想に傾倒していくことになりました。
玉川学園高校を中退するとより行動は刺激的に変化。
検挙される事が勲章であるかの様に傍若無人に暴れまくっています。
しかし60年5月には思想の違いからか愛国党から離脱。
翌月社会党の顧問である「河上丈太郎」氏襲撃事件に感銘を受けると制裁行動に移すタイミングを窺っていたようです。
10月4日に脇差しを自宅で手に入れると直ちに行動に移り、日教組並びに共産党のトップをターゲットにしますが、二人は幸いな事に転居と旅行で不在だったため難を逃れました。
その結果日本の社会党党首の浅沼氏を標的に変更。
浅沼稲次郎暗殺事件を引き起こしました。
「山口二矢」の死に様
1960年11月2日、東京都練馬区の東京少年鑑別所東寮2F2号室で死亡が確認されています。
17歳没。
死因はベッドから調達したシーツで縄を作り首を吊って亡くなった姿で発見されました。
支給されたハミガキ粉で壁に「七生報国天皇陛下万才」と書かれていたそうです。
「山口二矢」の死に様の信憑性
本来ならは当時から既に少年法基づき名前は非公表になるはずでしたが、事件が社会にもたらす影響を考慮して実名報道がされています。
遺言はなく壁に描かれた言葉は鎌倉時代末期から南北朝時代を生きた「楠正成」の言葉です。
しかし太平洋戦争中はスローガンとして半ば思想教育の如く用いられました。
当時は安保闘争の真っ只中で良く使われた言葉でもあります。
「後悔はしていないが償いはする」と言い残して自殺した事により、右翼思想の団体では神格化されていると言っていいでしょう。
実際「三島由紀夫」氏はその自決を称賛していたとされます。
まとめ
1960年11月2日、東京都練馬区の 東京少年鑑別所東寮2階2号室で逝去しています。
17歳没。
死因はベッドシーツを切り裂いて自作の縄を作成。
それを天井の裸電球の保護網にかけて自殺しました。