戦国武将、小早川秀秋をご存じでしょうか。
戦国時代最大の合戦、関ヶ原の戦いで西軍を裏切り、東軍についたことで大きく歴史を動かした武将といえば、ご存じの方も多いでしょう。
小早川秀秋は、関ヶ原の合戦のあと、たった2年で死んでしまいました。
西軍を裏切った祟りなのでは、ともいわれています。
そんな歴史を動かした男、小早川秀秋の晩年と死に際を分かりやすく解説します。
「小早川秀秋」とは?
一般的には裏切るという行為だけが有名になってしまい、小早川秀秋自身のことはあまり知られていません。
なぜ、西軍を裏切ることになったのか、簡単に生い立ちから歴史の流れを追いかけてみましょう。
「小早川秀秋」が歴史を動かすまで
小早川秀秋は、豊臣秀吉の正妻、高台院の兄夫婦の五男として生まれました。
秀吉の養子となり、後継者として育てられたため、なんと7歳で元服、その時点で丹波に10万石を与えれられていました。
幼いころは芸事にも秀で、優しい少年だったそうですが、この頃から秀吉に群がる戦国武将たちの政争に巻き込まれるように接待を受け、まだ7歳にも関わらず酒を飲むようになり、9歳の頃にはアルコール中毒であったといわれています。
11歳の頃、秀吉に嫡男秀頼が生まれたことで後継者候補から外れ、さらに13歳で小早川家に養子に出ました。
ちょうどその頃1に、秀次事件という秀吉の姉の息子、甥である秀次が謀反計画していたということで秀次一派を粛清した事件がありました。
このときに、秀秋は、丹波の10万石を奪われましたが小早川家30万石を相続し、筑前国の国主となりました。
秀吉側としては、秀頼を強固にするために、秀次一派を粛清し、身内である秀秋も追い出したつもりでしたが、その事件が結局、豊臣直血の勢力をそぎ、関ヶ原の戦での負けにつながったとも言われています。
15歳で朝鮮出兵しましたが、帰国命令を聞かなかったということで15万石に減らされ、残りは太閤藩として接収されました。
その理由としては、朝鮮出兵の足掛かりとして九州地方を手に入れたい秀吉の策略もあったようです。
さらにこのとき、秀秋は前当主小早川景隆時代の部下や大名たち多くの家臣を解雇することになりました。
しかし16歳で秀吉の死後、筑後・筑前に副領し再び59万石を得ました。
秀吉死後1600年18歳の時に起きた関ヶ原の合戦当初は、西軍として参戦をしていました。
その後一時期戦いを離れた後に、突如関ヶ原本戦の前日、それまで戦線にいなかった秀秋が突如1万5千の部隊を率いて西軍側の松尾山城に入城をしました。
翌日10時ごろ合戦が始まり、秀秋は西軍側に攻め込み、これを機にに西軍側に寝返る大名も現れ、関ケ原の合戦は東軍側の勝利で終わりました。
離反の主な計画は、秀秋家老の稲葉正成・平岡頼勝、その親戚である東軍の黒田長政が中心でしたが、秀秋が歴史を動かしたといえるでしょう。
「小早川秀秋」の合戦後と死に様
西軍を裏切った小早川秀秋は、合戦後も評判はずっとよくなかったようです。
世評とすると、豊臣秀吉の養子になり出世をしたのにも関わらず、豊臣を裏切り西軍を壊したことは、卑怯なことだと嘲笑されました。
秀秋は岡山55万石に移封され、名前も秀詮と替えましたがわずか2年後の21歳で突如死亡しました。
この死亡には、秀秋の裏切りにより死んだ大谷吉継の祟りなのでは、という話もあるようです。
「小早川秀秋」死に様の信ぴょう性
急に体調を崩し3日後に死亡したとのことですが、これは幼いころから酒を飲んでいたため、アルコール依存症も見られ、肝硬変だったのではというのが有力です。
合戦後あまりにも早く死んだことから、大谷吉継の祟りといわれたのも仕方がない話なのかもしれません。
まとめ
小早川秀秋は、西軍を裏切った祟りで早く死んだと思われがちですが、実は幼いころから政争の道具にされた結果なってしまった、アルコール依存症が原因だったようです。
裏切者としての印象が強いですが、小早川秀秋は、歴史に翻弄された興味深い大名でした。