「内村鑑三」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「内村鑑三」の死に際とは?日本の人物

内村鑑三は、明治時代・大正時代にキリスト教の伝道師として活動した人物です。

その晩年と最期を紹介します。

内村鑑三とは?

内村鑑三は、高崎藩士であった内村宜之の長男として誕生します。

東京外国語学校で英語教育を受け、札幌農学校に入学しました。

在学中にアメリカ・メソジスト教会の宣教師から洗礼を受けます。

その後、アメリカに渡りアマースト大学とハートフォード神学校で学び帰国しました。

そして第一高等中学校の嘱託教員となりますが、不敬事件を引き起こし辞職に追い込まれました。

教師として各地を転々とする中で、様々な著作を刊行しています。

1900年に雑誌「聖書之研究」を創刊すると、無教会主義のキリスト教を説くようになりました。



内村鑑三の晩年

内村鑑三にはルツ子という娘がいましたが、病がちになり看病もむなしく18歳という若さでこの世を去りました。

その死をきっかけに内村鑑三の再臨信仰が確信的なものになり、再臨運動を開始します。

再臨とは天に上ったイエス・キリストが、世界の終りの日に再び地上に降りてくることをいいます。

再臨運動は福音派を中心とするプロテスタントの超教派の運動で、内村鑑三はその中心人物でした。

全国各地で再臨講演会を行い、各地の教会で熱狂的な信仰復興をもたらしました。

しかし、キリスト教会内部からの反発もあり、この運動は2年足らずで収まります。

内村鑑三は、生涯再臨信仰を心に持っていました。

そして晩年は社会的な活動から身を引き、福音の宣教に努めています。

また、多くの門弟を育てており、塚本虎二や矢内原忠雄、大塚久雄などがいます。



内村鑑三の最期

内村鑑三が亡くなったのは、1930年のことです。

その数年前から体調を崩し始めていました。

1930年の3月26日に内村鑑三の古希を祝う祝賀会が開催されたのですが、本人は病状が悪化したため参加できていません。

そして、その2日後に家族に見守られながら70歳で永眠しました。

内村のライフワークとなっていた聖書之研究は、357号をもって廃刊となります。

これは内村の遺言によるものでした。

内村鑑三が巻き込まれた不敬事件

内村鑑三が第一高等中学校の嘱託教員だった時、講堂で行われた教育勅語奉読式において、勅語に最敬礼をしなかったとして社会問題化します。

同僚の教師や生徒たちから強く非難されたのです。

ただし、内村鑑三は敬礼はしており、最敬礼をしなかったといわれています。

不敬事件と呼ばれるようになり、騒動に巻き込まれた内村鑑三は体調を崩しました。

そして、職を追われてしまうのです。

まとめ

内村鑑三はキリスト教の伝道師として活動し、無協会主義を掲げていました。

様々な社会活動に参加しましたが、晩年はそういった活動から身を引き宣教に努めています。

ライフワークとなる聖書之研究は死ぬまで続けましたが、内村の死後は本人の遺言によって廃刊となっています。

内村鑑三は70歳で亡くなりました。

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