尊攘の志士として尽力するも、後に明治政府へ反乱を起こした「維新の十傑」の1人「前原一誠」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「前原一誠」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「前原一誠(まえばら いっせい)」とは?簡単に説明
「前原一誠」は「維新の十傑」に数えられる長州藩士です。
武士の家に生まれますが、病弱であったことや、落馬で足に障害を負ったことで、学問に打ち込むようになりました。
それが後に、維新志士を多く輩出した「吉田松陰」の「松下村塾」入門へ繋がるのでした。
「松陰」が処刑された後、「前原一誠」は長崎へ留学し、長州藩を脱藩します。
やがて、「高杉晋作」らと共にクーデターを起こし、藩の方針を倒幕へと転換させました。
「第二次長州征伐」の際は、「小倉口の戦い」にて参謀を務め、知略を以って幕府軍を退けています。
「前原一誠」の晩年と最期
明治元年(1868年)に「戊辰戦争」が始まると、「前原一誠」は新政府軍でも参謀を務め、戦功を挙げました。
明治維新後は越後府判事や参議、兵部大輔を務めますが、「国民皆兵」(=徴兵令)を巡って、反対派であった「前原一誠」は推進派の「木戸」と反目し合うようになります。
後に、それが原因で山口県の萩へと下野しました。
明治9年(1876年)になると、明治政府に不満を抱く士族たちが各地で反乱を起こします。
10月24日に熊本県で「神風連の乱」、10月27日に福岡県で「秋月の乱」が勃発すると、「前原一誠」もこれに呼応し、10月28日に不平士族たちを率いて「萩の乱」を起こしました。
その後、乱は鎮圧され、捕えられた「前原一誠」は同年12月3日に斬首となります。
享年42歳でした。
「前原一誠」の死に様の信憑性
「萩の乱」を起こすも、士族たちは明治政府軍の前に鎮圧されます。
後事を託された「前原一誠」は天皇へ直訴するために、萩から船にて東京を目指しますが、途中で悪天候に見舞われました。
やむを得ず、船は島根県の港に停泊しますが、「前原一誠」はそこで県令らに逮捕されてしまいます。
そして、萩へ連行された後、裁判による判決を受け、同地にて斬首に処されました。
師・吉田松陰による評価
「吉田松陰」は「前原一誠」のことを同門である「久坂玄瑞」と「高杉晋作」を引き合いに出して以下のように評しています。
「才では久坂玄瑞に及ばず、識では高杉晋作に及ばないが、智勇や誠実さなど、“人”として、先の2人は前原一誠に到底及ばない」
まとめ
「前原一誠」は「松下村塾」の門下生だった長州藩士です。
「第二次長州征伐」や「戊辰戦争」では参謀として戦い、その功績から「維新の十傑」の1人とされています。
明治維新後は要職を務めるも、政治方針に関する対立から政府を追われ、故郷の萩へと下野しました。
その後、各地で勃発していた不平士族による反乱に呼応し、「前原一誠」も士族を率いて「萩の乱」を起こしますが、乱の鎮圧後に捕えられ、斬首となりました。