所得倍増計画で今までの酷評はチャラに?
この記事では池田勇人の晩年と散り際について解説していきます。
「池田勇人」とは?簡単に説明
いわずとしれた日本を高度経済成長に導いた立役者。
所得倍増計画は現代日本史の教科書では避けて通ることはできない話題だと言っていいでしょう。
確かに戦後日本の発展に寄与した人物ではありますが、戦前から太平洋戦争前後においては史上最大の増税を行い国民生活を圧迫する悪手を打ったのは意外に知られていません。
舌禍を度々起こした事で知られており、マリーアントワネットならぬ「貧乏人は麦を食え」は曲解されたものとはいえ、現代ならば当時以上の大騒動必至と言えたでしょう。
「池田勇人」の晩年
いわゆる60年安保闘争で与党の強行採決により、法案をゴリ押しした代償としていわゆる第二次岸改造内閣が退陣の憂き目にあいます。
その後を引き継ぐ形で60年7月19日に第一次池田内閣が誕生。
4年前に「もはや戦後ではない」有名なフレーズが経済白書で記されるも、安保闘争、反米感情をどう抑えこむかが池田内閣の肝であったと言えるでしょう。
所得倍増計画の成功は高度経済成長による国民の支持を得るとともに燻った感情の火種を消し去る重要な役割を果たしました。
吉田茂内閣以降は短期政権が続いていましたが、池田内閣は2度の解散を経て4年を越える長期政権を築いています。
新幹線の開通、アジアで初の東京オリンピック開催を1ヶ月後に控えた64年9月、病魔に身体を蝕まれていることが発覚することとなりました。
「池田勇人」の死に様
1965年8月13日に死去、65歳でした。
死因は肺炎によるもの。
ちょうど1年前に発覚した咽頭癌が食道と肺への転移が発覚。
これにより29日に入院し、腫瘍切除と郭清を8月4日に施術を行っています。
しかし術後の予後が芳しくなく肺炎を発症すると13日に力尽きてしまいました。
「池田勇人」の死に様の信憑性
2度目の解散総選挙時点で既に喉の痛みを訴えており、東大病院の検査から咽頭癌が発覚。
10月の東京五輪開会式には何もしらない状態で元気な姿で参加させたいと、かつて池田氏の秘書官、第二次池田政権下て官房長官と外務大臣を務めた「大平正芳」氏が尽力。
咽頭癌と診断した東大病院ではなく、当時新設されてまだ2年ながらも最新の設備を備えた『国立がんセンター病院』への入院加療を勧めています。
9月7日IMF総会演説後に入院、五輪開会式へ病院から駆けつけて参加、その後閉会式を見届けての退陣。
この一連の流れは滞ることなく行われました。
この経緯はコロナによる1年延期で退陣の「安倍晋三」氏の退陣の折に各紙が報道。
冬季札幌五輪の「佐藤栄作」氏退陣と併せて“五輪の呪い”と呼ばれ、池田内閣の最後を知識として知った方も多いのではないでしょうか。
放射線治療で声を温存していたもの翌年7月16日の検査で転移が発覚。
29日の入院前に声が出なくなる事を懸念して「大平正芳」「前尾繁三郎」「鈴木善幸」諸氏に政治家としての遺言を残しました。
まとめ
池田勇人氏は1965年8月13日に死去しています。
65歳没。
死因は1年前の夏に発覚した咽頭癌の手術後に起こした肺炎によるものでした。
1年経過したことで食道、肺に転移し、広範囲で浸潤しており、肺炎を起こさなくても末期だったのは間違いありません。
亡くなるまでマスコミに癌と公表は一切されておらず、本人にも告知はされていなかったようです。