過剰な期待に殺された?
「円谷幸吉」の散り際とは?
この記事では円谷幸吉の晩年と散り際について解説していきます。
「円谷幸吉」とは?簡単に説明
日本マラソン史における屈指の人気選手と言っていいでしょう。
その人気は「瀬古利彦」氏と二分されるほど。
当時円谷氏が人気を集めた理由はその体格の部分も大きいと言ってよく、陸上選手では小兵中の小兵163センチ。
日本人らしい小兵の円谷氏の頑張る姿に欧米に立ち向かう日本の姿を投影させて応援した方も多いと思われます。
現代では考えられないことですが、初日に男子1万メートルで6位入賞。
日本では後年当たり前になるトラックの選手のマラソン転向の道筋を示した一人だと言っていいでしょう。
「円谷幸吉」の晩年
全く期待されずに第3の男として走った東京オリンピックから一転。
円谷氏を取りまく環境は変貌していくことになりました。
周囲の声は是可否でもメキシコ五輪での金メダルを望む声と期待で円谷氏は現人神化されていくことになります。
その一方で自身を取りまく環境は大きく変貌していくことになりました。
信頼していたコーチ2人の転任による流出。
そして結婚願望はあるもの結婚=成績の低下を懸念する周囲の声からの反対により破談。
なによりも彼女との温度差もあったとされます。
また自衛隊体育学校の教官に任命されたことで仕事に忙殺され、練習時間の確保もままならなくなりつつありました。
現代とは違いコンディションコーチの存在もなく、その状況下でのオーバートレーニングから故障を招くことになりました。
「円谷幸吉」の死に様
1968年1月9日東京都練馬区の自衛隊体育学校体育教官宿舎の自室のベッドの上で頸動脈を切って死亡。
27歳没。
死因は出血多量によるもので隣室の教官が11時に発見しました。
「円谷幸吉」の死に様の信憑性
当時の新聞紙上では“足の再起不能を悲観して”を理由として1面に掲げているところが多く、それが理由なのは間違いないでしょう。
実際アキレス腱断裂や椎間板ヘルニアによる故障も物理的理由として挙げられます。
しかし東京オリンピック後の過度の期待に精神疲労を起こしてしまった部分も大きいと考えられています。
特に67年シーズンは水戸マラソンで凡走、前述の実業団陸上でも1万メートルで3位入賞以外は凡走。
これにより周囲の目が期待から失望に変わりはじめた落差も精神的に影響したのは間違いありません。
遺書の「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」は有名な文言として捉えられるとともに当時の文壇・巨匠「川端康成」や「三島由紀夫」ら諸氏から解釈されることになりました。
まとめ
1968年1月9日11時に自衛隊体育学校教官宿舎の自室にて右の頸動脈を切った姿で隣室の同僚に発見されました。
27歳没。
死因は出血多量によるもの。
古くのメディアには遺書の内容からノイローゼ説を掲げるところも多く見られました。
また当時の新聞紙上ではアキレス腱断裂でマラソンランナーとして再起不能宣告されたことに絶望したとも。
遺書の文言「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」は日本国民を涙させるものとなっています。