「小西行長」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「小西行長」の死に際とは?日本の人物

「小西行長」とは戦国時代から安土桃山時代に活躍した武将で、キリシタン大名として知られています。

豊臣秀吉の家臣として、2度の朝鮮出兵において、中心的な役割を果たしました。

信仰に生きた「小西行長の」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈します。

「小西行長」とは?簡単に説明

「小西行長」(こにしゆきなが)は1588年(永禄元)堺の商人、小西隆佐の次男として京都で生まれました。

父親は海上輸送のルートを持った豪商で、熱心なキリシタンでした。

行長はその才覚と実家の財力を気に入られ、豊臣秀吉の臣下となります。

1581年(天正9)秀吉より舟奉行、水軍の将に任命されました。

この頃、行長は洗礼を受け、洗礼名アウグスティヌスとなります。

太田城の水攻めに成功した行長は、秀吉から小豆島1万石を与えられました。

1587年(天正15)九州での武功を挙げた行長は、肥後国の宇土・益城・八代を与えられ、宇土城主となります。

同年に秀吉はバテレン禁止令を出し、キリスト教の布教に制限をかけています。

行長は国内の宣教師を小豆島に招いて匿いました。

キリシタン大名高山右近も小豆島に隠し、自分は棄教したふりをしたとされています。

行長は秀吉の朝鮮出兵、文禄の役において、先鋒を勤めました。

朝鮮側は明へ援軍を乞い、戦況は膠着状態に陥ります。

行長は石田三成と共に和平交渉に入りました。

明側の和睦の条件は秀吉に対して「明の臣下になれ」というものでした。

行長はこの条件をごまかして秀吉に伝えるつもりでしたが、使者はそのままの内容を伝えてしまいます。

秀吉は大激怒、行長に死を命じましたが、前田利家や淀君のとりなしによって助命されました。

二度目の朝鮮出兵、慶長の役では得意の水軍を率いて参戦しましたが、秀吉が死亡したために兵を引き、行長は帰国しました。



「小西行長」の死に様

1600年(慶長5)小西行長は関ヶ原の戦いにおいて、西軍、豊臣方につきます。

この頃の行長は徳川に追従していました。

しかし朝鮮半島での石田三成との共闘や加藤清正との確執があったため、西軍の将として激しく戦います。

小早川秀秋らの裏切りで西軍が崩れると、行長は伊吹山に逃走しました。

逃走中、庄屋の林蔵主に出会い、匿われます。

行長は自分を捕縛し、徳川方に引き渡して褒美をもらうよう、蔵主を促しました。

蔵主は悩んだ末、行長を徳川方に引き渡します。

行長は生まれ育った京都で市中引き回しの上、斬首。

首は三条河原に晒されました。

享年46歳でした。



「小西行長」の死に様の信憑性

小西行長はキリシタンであったため、関ヶ原で敗走しても、切腹、自害はできませんでした。

深い信仰のもとに選んだ最期ですから、伝えられる死に様は信憑性が高いと言えます。

死に臨み行長は告解を願いましたが、家康はこれを許さず、遺体への接近も認めませんでした。

遺体はイエズス会に引き取られた、カトリック式で葬られたとの説もあり、どこへ埋葬されたのかはわかりません。

まとめ

小西行長は豊臣秀吉の厚い信頼の陰で、キリシタンの信仰を貫きました。

徳川寄りの立場にありながら西軍に味方するなど、理解されがたい一面も持っています。

こうした経緯を踏まえ国内では評価の低い行長ですが、キリスト教圏では信仰心が強く、忠義に厚い武将として知られています。

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