天才肌の選手ならではの苦悩を抱えていた?
「奥大介」の散り際とは?
この記事では奥大介の晩年と散り際について解説していきます。
「奥大介」とは?簡単に説明
『ジュビロ磐田』黄金期に「藤田俊哉」「名波浩」「福西崇史」「服部年宏」と構成したN-BOXを構成。
『横浜F・マリノス』時代には主将を経験するとともに2年連続のベストイレブンに輝いています。
A代表では特筆したインパクトを残したとは言い難いも26キャップ。
それ以上に「中田英寿」「安永聡太郎」らと臨んだ1995カタールU20ワールドカップでは準々決勝のブラジル戦でゴールを決め、低迷期の日本サッカーにひと筋の明るい希望をもたらした世代の一人でした。
「奥大介」の晩年
マリノスを世代交代で半ば追われる形て退団。
横浜FCで1年プレーして現役を引退しています。
同世代の選手のなかではいち早く指導者に転身しています。
しかし多摩大学目黒高等学校の監督は就任時は話題になったもの3年半で離職、その後横浜FCの強化部に入るも、わずか1年で辞任し、サッカー界から離れています。
その後兵庫県内のお好み焼き屋でバイトしている姿をブログで報告していました。
しかし「佐伯日菜子」夫人に殺人予告したことで逮捕。
華々しい選手生活からの転落人生で話題を集めることにした。
「奥大介」の死に様
2014年10月17日6時、宮古島の病院で死亡が確認されています。
38歳没。
死因は運転していた軽自動車の操作ミスによる交通事故によるものでした。
「奥大介」の死に様の信憑性
宮古島のホテルで調理補助のバイトをしており、出勤途中の4時25分県道走行中に見通しのいい緩やかな左カーブで対向車線にはみ出して電柱と衝突。
電柱が折れるほどの衝撃で雑木林でようやく停止したようでした。
全身を強く打ち骨盤骨折、発見された段階で心肺停止しており、蘇生は叶いませんでした。
街灯もない真っ暗な県道でしたが、ブレーキ痕はなく、奥氏になにが起きたのかは不明です。
亡くなる9時間前に知人と電話でやりとりをしており、翌々日19日の『エゴアイランド宮古島マラソン』ハーフの部にエントリー、翌月には韓国旅行も予定していただけに自殺は考えられにくいと思われます。
また野生動物が飛び出してきた可能性も多いにありますが、ブレーキ痕がないため、それも可能性は薄いと言えるでしょう。
8月下旬からバイトをしており、ちょうど早朝勤務にも慣れた頃。
また朝の4時から砂浜をランニングするのが日課であったため、疲れから少しウトウトしてしまった可能性が高いのではないでしょうか。
まとめ
2014年10月17日6時に宮古島の病院で死去。
約1時間半前に宮古島の県道で電柱に衝突しており、全身強打と骨盤骨折などで発見された時には既に心肺停止状態でした。
38歳没。
本来ならば40歳まで現役を続けたかったもの、雇ってくれるJ1チームはなく自ら引退。
当時はまだJ2でプレーする事に抵抗を感じる選手も多かった背景もあるでしょう。
引退後は情緒不安定だったとされ、引退の理由を夫人のせいにし、DVの日々だったと言います。
ついには脅迫事件で逮捕、ようやく憑きものが落ちたかのように第3の人生を歩み始めた矢先の死亡事故となりました。