不治の病に冒された壮絶な死を遂げた?「佐伯祐三」の散り際とは?
この記事では佐伯祐三の晩年と散り際について解説していきます。
「佐伯祐三」とは?簡単に説明
30年の生涯において画家として活動したのはその1/3程度であり、その大半をフランスで過ごしたことで知られています。
フランスに渡航後、写実主義の作風から“フォーヴィスム”の画風に転向。
その契機となった「モーリス・ド・ヴラマンク」氏との邂逅は逸話として必ず語られるほどの有名なエピソードになります。
作品としては風景画が多く『パリ郊外風景』などでフォーヴィスムが強く発現されており印象的でしょう。
風景画以外では1928年に描かれた郵便配達夫は白の時代で知られる「モーリス・ユトリロ」の影響を受けたものでした。
「佐伯祐三」の晩年
既に結核に身体を冒されており、現代でも結核の治療の難しさが困難なのは既知のとおりでしょう。
この時代には満足に効果の出る薬すらありませんでした。
未練を残して1926年に日本へ帰国するも翌27年には再びフランス・パリへ渡航しています。
それからは自身の命の灯の残りを感じたかの様に創作に力を入れていくことになりました。
それは28年3月に結核の状態が悪化すると顕著になり、毎月30作品を書き上げる様になっていたと言います。
「佐伯祐三」の死に様
1928年8月16日、フランスのセーヌサンドニ県のヌイイ=シュル=マルヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院で死去。
30歳没。
死因は衰弱死とされています。
「佐伯祐三」の死に様の信憑性
精神的破綻を起こした1つの理由として考えられるのは、自分の余命が幾何も無いことを悲観したとも言われます。
また最愛の娘である「佐伯弥智子」もまた結核に罹患させてしまったという悔恨の念もあったのかもしれません。
実際に弥智子氏は自身の死去してから2週間後に結核で9歳でその短い生涯を終えています。
自殺未遂後は愛娘に不治の病を移した自責からか、食事の摂取を拒否したとも言われますが理由は定かではありません。
1997年に「落合莞爾」氏が出版した『天才画「佐伯祐三」真贋事件の真実』では佐伯氏と弥智子氏はヒ素で毒殺されたというセンセーショナルな文言が見られます。
また27年のアパートのガス爆発事故も殺意を持って仕組まれた説がありますが、事件から100年近く経過しようとする今となっては真偽は不明と言っていいでしょう。
まとめ
1928年8月16日、フランス・セーヌサンドニ県のヌイイ=シュル=マルヌにあるヴィル・エヴラール精神病院で逝去。
30歳没。
死因は持病である肺結核の悪化と精神病によるものだと言われます。
食事を取るのを拒否したため、衰弱は加速していくことになりました。
愛娘である弥智子氏も同時期に結核に罹患。
夫人の米子氏が娘の看護についていたため、誰にも看取られずに生涯を終えることになりました。
弥智子氏もそれから2週間後の8月末日にわずか9歳で永眠。
90年代に入るとヒ素による毒殺説、一酸化炭素中毒による他殺説も唱えられていますが、死後90年以上経過していることもあり真偽は不明です。