「生駒親正」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「生駒親正」の死に際とは?日本の人物

織田家臣や豊臣家臣として、生涯を通して主戦場に身を投じた武将「生駒親正」はどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「生駒親正」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「生駒親正(いこま ちかまさ)」とは?簡単に説明

「生駒親正」は美濃国(現在の岐阜県南部)に生まれ、「織田信長」の美濃攻めの際に臣従することになります。

その後、織田家臣「羽柴秀吉」(後の豊臣秀吉)の与力となり「長篠の戦い」「石山本願寺攻め」などの主要な戦に参陣しました。

「本能寺の変」「織田信長」が横死した後は、「豊臣秀吉」に仕えます。

豊臣家臣としても「山崎の戦い」「小田原征伐」「朝鮮出兵」など、50代から60代後半まで主要な戦へ参加しています。

その後、「三中老」の1人に任じられました。

(役職については史料がないため定かとなっていません)

「生駒親正」の晩年と最期

やがて、慶長5年(1600年)に「石田三成」が挙兵し、「徳川家康」との間で「関ケ原の戦い」が起こります。

「生駒親正」「石田三成」方の西軍に、長男の「生駒一正(いこま かずまさ)」「徳川家康」方の東軍にそれぞれ別れて与しました。

当時、「生駒親正」は病床に伏していたため、代理として家臣の「細川藤孝(ほそかわ ふじたか)」「丹後国田辺城攻め」に参加させました。

結果として「石田三成」方の西軍は敗北し、西軍に加わった「生駒親正」は責任を取って、出家後に高野山にて蟄居(ちっきょ/謹慎のこと)します。

ただし、高野山に入ったのは関ケ原の戦い直前のことで、東軍寄りの行動を取ったためとする説もあるようです。

その後、「徳川家康」より長男の「生駒一正」の功績が認められ生駒家の讃岐(現在の香川県)の所領は安堵されることになります。

やがて、「生駒親正」も許され、讃岐に戻ると、慶長6年(1601年)に家督を「生駒一正」に譲りました。

自身は隠居に入った後、慶長8年(1603年)に高松城にて生涯に幕を下ろします。

享年78歳でした。

「生駒親正」の死に様の信憑性

死因については不明で、定かではありません。

「関ケ原の戦い」における生駒親正にまつわる話

「関ケ原の戦い」の折、西軍と東軍に別れて参戦した生駒親子ですが、理由については2つ説があります。

ひとつは、どちらに勝敗が傾いても生駒家が存続できるように取り計らったとする説です。

もうひとつは、「石田三成」挙兵時に「生駒親正」は大阪にいたため西軍に与せざるを得なかったとする説です。

まとめ

「生駒親正」は美濃国(現在の岐阜県南部)に生まれ、「織田信長」に仕えた後に「豊臣秀吉」の家臣となります。

60代後半までの間に織田家臣として、また豊臣家臣としても主要な各戦に参陣を果たしています。

「関ケ原の戦い」では東軍に与した長男とは別れて西軍に与しました。

戦後は、所領の讃岐の地にて78年の生涯を終えます。

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