「大野治長」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「大野治長」の死に際とは?日本の人物

豊臣の屋台骨?板挟みの苦労人?大坂の陣敗北の戦犯?実は豊臣秀頼の父親?

大野治長の晩年や最期を紹介します。

「大野治長」とは?簡単に説明

大野治長は、1569年(永禄12年)、丹後国で生まれました。

母は、後に淀殿(豊臣秀頼の母)の乳母となる大蔵卿局です。

豊臣秀吉・秀頼に仕えますが、秀吉の死後、徳川家康暗殺計画の首謀者として罪を問われて流罪となりました。

関ヶ原の戦いでは東軍に属します。

その後は豊臣方に属し、中心的な役割を果たしました。



「大野治長」の晩年

大坂冬の陣において、治長は豊臣の屋台骨として尽力します。

しかし、このとき、治長は籠城などの消極策を取りたがり、真田信繁(幸村)や後藤基次ら浪人衆の積極策を退けました。

これにより、豊臣は幕府軍を叩く機会を逃したと言われています。

結果、豊臣に不利な条件で幕府軍と和睦することとなり、治長は、絶望的な状況下で大坂夏の陣に臨むこととなりました。

なお、このとき治長は、幕府との和睦交渉にあたっていましたが、和睦反対派の闇討ちに遭い負傷しました。

首謀者は弟の大野治房だと言われています。



「大野治長」の死に様

堀を埋められた大坂城、圧倒的な兵力差、豊臣が圧倒的不利な大坂夏の陣。

真田信繁や毛利勝永が全線したものの、豊臣の敗北は決定的でした。

豊臣の敗北を確信した治長は、秀頼の妻で家康の孫である千姫を使者として幕府軍へ送り、秀頼・淀殿の助命を嘆願しました。

しかし、二人の助命はかなわず、千姫は幕府軍の陣に留め置かれました。

万策尽きた治長は、秀頼や淀殿、母親の大蔵卿局らとともに、大坂城で自害しました。

1615年(慶長20年)5月8日。

享年47。

「大野治長」の死に様の信憑性

治長の死は、戦国最後の戦と言われる大坂の陣で起きたことであり、月日まで記録されていることから、死に様の信憑性は高いと考えられます。

また、1623年(元和9年)に書かれた「春日社司祐範記」で、「大野修理沙汰して最後に切腹なり。

手前の覚悟比類なし」
と、治長の死について言及されています。

(「修理」は治長の官職「修理大夫」の略称です)

「大野治長」は「豊臣秀頼の父親」説

大野治長は、豊臣秀頼の父親だったという説があります。

根拠として、
・秀頼は、父・秀吉に似ず、背が高く立派な体格だった(治長も体格が良かった)
・1599年(慶長4年)に毛利家家臣の書状で、淀殿と治長の密通に言及したものがある
・史料価値の高い「多門院日記」などにも同様の記述がある

ことなどが挙げられます。

子宝に恵まれなかった秀吉ですが、淀殿との間には子が生まれているため、状況証拠は揃っているとも言えますね。

まとめ

大野治長の晩年や最期について紹介しました。

豊臣家の首脳であったことや、浪人衆と衝突もあったことから、「戦犯」「無能」など悪者扱いする評価の多い治長ですが、淀殿、浪人衆、幕府との間で苦悩していたことがうかがえます。

彼の死に様を見れば、少なくとも豊臣への忠義が強かったことは間違いないでしょう。

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