仏教集団でありながら、武装して「織田信長」と熾烈な争いを繰り広げた勢力「石山本願寺」。
その「石山本願寺」を率いた人物として知られる「本願寺顕如」ですが、どのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「本願寺顕如」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「本願寺顕如(ほんがんじ けんにょ)」とは?簡単に説明
「本願寺顕如」とは、浄土真宗の僧であり、石山本願寺の住職だった人物です。
仏教団体である傍ら、武力を以って「織田信長」に激しく抵抗した「石山本願寺」勢力を率いた人物としても知られています。
12歳の「顕如」が継いだ「本願寺」は、やがて大名にも並ぶ権力を持つ一大勢力へと発展していきました。
その後、頭角を現した「信長」と反目し合うようになり、元亀元年(1570年)から「石山合戦」と呼ばれる交戦状態へと突入します。
抵抗活動は10年にも及びましたが、天正8年(1580年)に「顕如」は「信長」と和睦しました。
「本願寺顕如」の晩年と最期
「本能寺の変」後は「豊臣秀吉」とも和睦を結びますが、「ルイス・フロイス」の記述から、豊臣政権下の「本願寺」は厳重な統制を受けていたようです。
天性17年(1589年)に、聚楽第の壁に政権批判の落書をした容疑者と「秀吉」が追っていた浪人らが本願寺の寺内町に逃げ込んだという情報がきっかけで、厳しい処罰が敢行されます。
浪人は見つからなかったものの、彼らを匿った罪で多くの町人が磔に処され、同じく彼らを匿ったとされた2つの町が取り壊されました。
「顕如」自身も「秀吉」から責めを受け、次第に「本願寺」の力は削がれていくことになるのです。
天正19年(1591年)には、「秀吉」により京都七条堀川の寺地へ移転させられてしまい、翌天正20年(1592年)の11月24日、「本願寺」再興の志半ばで示寂(=死去)します。
享年50歳でした。
「本願寺顕如」の死に様の信憑性
死因については不明で、定かではありません。
その後の「本願寺」
「顕如」示寂後、信長和睦派であった「顕如」の三男「准如(じゅんにょ)」が「本願寺」を継ぐことになりました。
これにより、信長強硬派であった「顕如」の長男「教如(きょうじょ)」との間で対立が起こり、教団内部にも軋轢が生じます。
再興を願った「顕如」の意に反し、「本願寺」は「准如」の「西本願寺」と「教如」の「東本願寺」に分裂することになったのです。
まとめ
「本願寺顕如」は浄土真宗の僧であり、「石山本願寺」勢力を率いた人物です。
「顕如」の代で「本願寺」は大名と同等の権力を手にし、最盛期を築き上げます。
やがて、「信長」と敵対し、一向一揆や「信長包囲網」を築くなど、10年にも及ぶ激しい抵抗活動を繰り広げました。
「秀吉」が天下を取ると、「本願寺」は厳しい統制を受け、徐々に勢力を削られていきます。
その後、移転させられた先で「本願寺」再興を図るも、天正20年(1592年)の11月24日、享年50歳で示寂しました。