戦国武将の「津田信澄」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?
「津田信澄」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈していきます。
「津田信澄」とは?簡単に説明
津田信澄は織田信秀三男である織田信行の嫡男として生まれましたが、父は信長と対立し謀殺されます。
幸運なことに連座は回避し、かつて父の重臣であった柴田勝家に養育され、織田家に下ったものの浅井家の名将であった磯野員昌の嗣養子となるのでした。
その後実質的に磯野家を乗っ取り、信長の側近扱いで織田信澄を名乗ることもしばしばでした。
信長の信頼も厚く側近として活躍、宿将から娘を娶り、公私ともに順風満帆な人生を歩んでいましたが、この婚姻が大きく運命を変えるとは本人すらも思ってはいなかったでしょう。
「津田信澄」の晩年
父・信行の汚名返上は既に済ませており、各地を転戦、信長の意向通りに磯野家の乗っ取りも成功、織田信澄を名乗ることもでき、大坂を牛耳るほどの権勢を得ています。
信長の側近としても活躍、一門衆では神戸信孝の次席、第5位の人物として扱われています。
織田家で頭角を現した宿将の明智光秀から娘を娶ったこともあり、なにもかもが磐石の地位を築いていたと言えるでしょう。
安土城の普請、大坂を実質管理、甲州征伐では信長の側近として帯同、四国攻めでは丹羽長秀、蜂屋頼隆とともに神戸信孝の副将として渡海することも決定していました。
「津田信澄」の死に様
津田信澄の命運が高転びしたのは、舅である明智光秀が謀反を起こし、本能寺の変で信長を撃ち取ったことでしょう。
このとき市中には舅の光秀とともに信澄が共謀し、謀反を起こしたと風説の流布が起きてしまいます。
それにより疑心暗鬼となった神戸信孝と丹羽長秀が大坂城千貫櫓を強襲。
抗戦したものの野田城にて丹羽長秀配下で武勇の誉れの名高い上田重元に討ち取られてしまいます。
江戸幕府が寛政年間に編集した 『寛政重脩諸家譜 』 に基づけば享年25。
信長研究の第一人者谷口克広『織田信長家臣人名辞典』によれば享年28と推定されており、正確な年齢は現在も不明のままです。
討ち取られた信澄の首級は速やかに堺へと運ばれ、天下の謀反人として晒されることになりました。
「津田信澄」の死に様の信憑性
津田信澄が本能寺の変において、明智光秀と裏で繋がっていたとされる歴史的史料は今までのところ見つかっていません。
しかし戦国時代の貴重な基礎資料の1つ『多聞院日記』では奈良の興福寺にいた英俊が6月2日午後の記録として光秀と信澄が謀叛という主旨の記述が確認できます。
翌3日には三河までこの情報が伝播しており(2日の早い段階に情報を知った家康でもまだ伊賀路の途上)、かなりの広範囲で極めて高速に噂が広まっていたと言えるでしょう。
光秀への加担への真偽はわかりませんが、かなりの広範囲の地域に光秀と信澄が謀叛を起こしたという風説が流れたのは明確な事実だと言えます。
まとめ
信澄が光秀の意図を知っていたかは全く不明で、風説の通り首謀者であれば即呼応し、なんらかの動きは見せたはずですが、その挙動がありませんでした。
それゆえ冤罪の可能性が極めて高いと言えるでしょう。
ただ信長を排除しようとした実父・織田信行、信長を追い詰め、一度は降りながらも出奔した養父・磯野員昌(もう1人の養父・柴田勝家も当初は反信長)そして本能寺の変を起こした舅・明智光秀。
そして宣教師から残虐で誰もが死を望んでいたと評価された性格、民が面白がって流言飛語を加速させる下地もあったのは間違いありません。