この記事では、「フランツ・シューベルト」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「フランツ・シューベルト」とは?
「フランツ・シューベルト」とはオーストリアの作曲家で、コンヴィクトという寄宿制の神学校で音楽を学びました。
アントニオ・サリエリの指導を受け、作曲の分野でその才能が花開きます。
17歳で「交響曲第1番」を作曲しました。
翌年には「野ばら」や「魔王」「糸をつむぐグレーヒェン」といったリートという歌曲を完成させています。
その後も次々と名曲を世に送り出し、その数は1000曲にも上ります。
そのうちの600曲が歌曲でした。
「フランツ・シューベルト」の晩年
「フランツ・シューベルト」といえば多くの人に知られる作曲家ですが、生きているうちに名声を得ていたわけではありません。
シューベルトが評価されたのは死後のことで、生前はそれほど有名ではありませんでした。
シューベルトは歌曲の王と呼ばれることもありますが、それも亡くなった後で呼ばれるようになったのです。
シューベルトは生涯のほとんどをウィーンで過ごしており、晩年もウィーンに住んでいました。
シューベルトの晩年の作品には、「美しき水車小屋の娘」や「死と乙女」「冬の旅」「白鳥の歌」等があります。
また、ベートーヴェンの命日である3月26日に、シューベルトは自身の作品の演奏会を行っています。
それが生きているうちに行われた唯一の演奏会でした。
「フランツ・シューベルト」の死に様
「フランツ・シューベルト」は、1828年に31歳という若さで亡くなります。
数年前に梅毒を患い、生死の境をさまよったこともありました。
その後は回復しましたが、1828年になると徐々に体調を崩すようになります。
そして、高熱に浮かされ兄のフェルディナンドの家で亡くなりました。
「フランツ・シューベルト」の死に様の信憑性
「フランツ・シューベルト」の死因は、よく分かってはいません。
腸チフスが原因という説もありますし、梅毒が原因でなくなったという説もあります。
シューベルトが梅毒にかかったことがあるのは間違いなく、当時梅毒は不治の病と恐れられていました。
死因として有力なのは、梅毒の治療に使われた水銀による中毒という説です。
まとめ
「フランツ・シューベルト」は晩年にも多数の名曲を残していますが、31歳で亡くなってしまいます。
死因についてははっきり分かっておらず、腸チフスや梅毒、梅毒の治療に使われた水銀中毒といった色々な説があります。