「萬屋錦之介」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「萬屋錦之介」の死に際とは?日本の人物

1954年にわずか21歳という若さで美空ひばりさんの相手役に抜擢された萬屋錦之介は、映画「ひよどり草紙」に出演して以来、順風満帆にキャリアを重ねていきますが、50歳を迎えた1982年には、個人事務所である「中村プロダクション」が約13億円の負債を抱えて倒産してしまいます。

「萬屋錦之介」とは?簡単に説明

時代劇や映画俳優としても知られている萬屋錦之介は、昭和7年生まれの日本の歌舞伎役者で、昭和29年に歌舞伎界から映画界に転じて映画スターとなり、その後テレビや舞台でも活躍していました。

昭和47年に当時の芸名を中村錦之助から「萬屋錦之介」に改名し、その後昭和53年に公開された映画『柳生一族の陰謀』で主演して大ヒットを記録します。

昭和43年には自身の会社「中村プロダクション」を設立し、順風満帆に見えた芸能キャリアでしたが、昭和57年には15億円にもおよぶ莫大な借金を抱えて事務所は倒産し、萬屋名義の別荘や自宅も最終的には人手に渡ってしまいます。



「萬屋錦之介」の死に様

昭和57年、歌舞伎座公演中に倒れた萬屋錦之介さんは、重症筋無力症と診断されたため、そのまま入院して胸腺腫の摘出手術を受けます。

術後、驚異的な回復力をみせた錦之介さんは、2年後に出演した『子連れ狼』を始めとして、TV時代劇や現代劇、歌舞伎座の舞台などにも出演するほどの復活を果たします。

このように一時は完全に回復して、仕事も順調に進み始めていた錦之介さんでしたが、平成8年に突如喉の不調を訴え、診察してみると咽頭がんに侵されていることが判明してしまいます。

これにより翌年放送が決定していた大河ドラマ『毛利元就』の尼子経久役を降板せざるを得なくなり、同年の夏には扁桃と舌の半分を切除する手術を行います。

この手術により声が出なくなってしまった錦之介さんは、その後は筆談での会話を余儀なくされてしまい、食べられる食事は流動食のみに制限されてしまいます。

それでも懸命のリハビリにより、翌年には一時退院が許されるほどに回復しますが、闘病生活で抵抗力が落ち、弱っていた身体に肺炎を患ってしまったことにより、そのままそのまま帰らぬ人となってしまいました。



「萬屋錦之介」の死に様の信憑性

萬屋錦之介さんの葬儀は、平成9年に芝にある増上寺で行われ、3,000人のファンが詰めかけて出棺を見送りました。

この死後、話題となったのは錦之介さんの「3人の妻」の存在で、平成2年に入籍した甲さんは喪主をつとめ、その前妻は21年間連れ添った女優の淡路恵子さん、さらに一番最初の妻は4年間の結婚生活を送った後に離婚した有馬稲子さんです。

喪主である甲さんは昭和61年に錦之介さんと不倫関係のまま同棲生活を始めたことにより、淡路さんとの三角関係が報じられていたため葬儀の際は関係者も大変ピリピリした様子だったと言います。

この3名の女性たちが錦之介さんの葬儀でニアミスをしてしまう可能性も当時報じられていましたが、当日は大きなトラブルもなく事なきを得ています。

「萬屋錦之介」の小ネタ等

昭和を代表する銀幕スターとして知られる萬屋錦之介さんは、合計200作品以上にもおよぶ映画やTVの時代劇などに出演してきた昭和を代表するスターで、その類まれな殺陣技術はベルリン国際映画祭をはじめとする数多くの国内外の賞にも輝いています。

東映が時代劇復興を目指して30億円もの興行収入を上げる大ヒット作や、萬屋錦之介が演じる宮本武蔵が70人以上もの敵を相手に斬り合う決闘シーンは現在においても語り継がれており、ベルリン国際映画祭で日本で初めて金熊賞を受賞しています。

まとめ

中村錦之助さんは、日本の伝統芸能である歌舞伎で培った技量を映像の世界で独自に昇華させてきた突破者です。

彼の残してきた数々の傑作群は、日本国内に留まらず、ワールドワイドで大変評価されてきました。

錦之助さんの迫力の演技や殺陣は、近年のテレビ時代劇や映画と比較しても、まったく見劣りはしないクオリティで、所作良し、立ち回り良しと言われる天才役者の片りんを見せつけています。

晩年は多くの病などに苦しめられ、お金にも困っていた錦之助さんですが、残していった数多くの作品群からは、いまだに当時の輝きをひしひしと感じることができます。

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