戦国武将の「武田信玄」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?
「武田信玄」のおおまかな人生のあらましを簡単に解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。
「武田信玄」とは?簡単に説明
「武田信玄(1521年~1573年)」とは「甲斐の虎」と呼ばれた戦国武将で、「越後の龍」の上杉謙信のライバルとしても有名です。
謙信と5度に及ぶ「川中島の戦い(1553年~1564年)」を行った信玄は、無敵の騎馬隊を率いた武将でした。
織田信長と15代将軍・足利義昭が対立すると義昭の要請を受け、「西上作戦」を開始します。
1573年の「三方ヶ原の戦い」で徳川家康を破る強さを見せつけましたが、信長を討伐する西上の途中で体調を崩して病没しました。
信玄の寿命が長ければ、信長すら危うかったと言われるほどの武将でした。
「武田信玄」の晩年
「武田信玄」の晩年は、元亀2年(1571年)に織田信長の「比叡山焼き討ち事件」で織田家との同盟が破綻した頃からになります。
元亀3年10月3日、信玄は将軍・足利義昭の懇請を受けて、信長を討つために甲府を出発します。
「一言坂の戦い・二俣城の戦い」で信玄は徳川家康の軍勢に連戦連勝、1573年12月22日の「三方ヶ原の戦い」で遂に家康軍を敗退させました。
しかし、「野田城の戦い」に勝った後、信玄の持病が悪化し何度も吐血するようになり、武田軍の進軍が止まりました。
「武田信玄」の死に様
「武田信玄」は「野田城の戦い(1573年2月10日)」の後に、持病を悪くして頻繁に喀血するようになり、4月初めには甲斐に撤退することを決断しました。
しかし、本国の甲斐に帰り着くことはできず、元亀4年(1573年)4月12日に三河街道の途中で信玄は病死しました。
享年53歳 武田信玄が死去した場所は、「小山田信茂宛御宿監物書状写」の記述では、三河街道の「信濃国駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村)」とされています。
死去の地点は、「浪合・根羽」の異説もあります。
「武田信玄」の死に様の信憑性
武田信玄は徳川家康を「三方ヶ原の戦い」で破った後に持病の調子が悪くなり、喀血する頻度が多くなったとされています。
野田城を落としてから武田軍の進軍が急にストップし、4月には合議で信玄の甲斐撤退が決定されているので、甲斐に帰る途中で病死したことは史実として信憑性があります。
武田信玄が口から吐血するような何らかの病気で亡くなったことは確かですが、死因となった持病については「労咳・肺結核(肺炎)」ではないかと言われています。
『甲陽軍艦』の記載に基づけば、喀血の症状が出やすい「胃がん・食道がん」で死んだということになります。
江戸時代の新井白石の『藩翰譜』の仮説では、「野田城の戦い」で信玄は鉄砲で狙撃されていて、その怪我が原因で亡くなったとされています。
まとめ
「武田信玄」の大まかな人生の流れと晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?
「武田信玄」は「三方ヶ原の戦い・野田城の戦い」の後に体調を崩して持病が悪くなり、1573年4月12日に甲斐に帰る途中で病死しました。
「武田信玄」の死に様について詳しく知りたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。