「逸見晴恵」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「逸見晴恵」の死に際とは?日本の人物

逸見晴恵はアナウンサーや司会者として活躍した逸見政孝の妻で、エッセイストとしても知られています。

逸見晴恵の晩年と最期を紹介します。

逸見晴恵とは?

逸見晴恵は東京都の出身で、1970年に逸見政孝と結婚します。

2人の子どもに恵まれ長く専業主婦をしていましたが、夫の政孝がフリーアナウンサーとして独立するのをきっかけにオフィスいっつみいの取締役社長に就任しました。

逸見政孝はフリーになるとバラエティ番組等でも司会を務めるようになり、名司会者と呼ばれるようになります。

しかし、胃がんにより48歳という若さで亡くなってしまいます。

夫を亡くした晴恵は、エッセイを書きおろしたり公演活動を行うなど精力的に活動を続けました。



逸見晴恵の晩年

逸見晴恵は夫の死後、エッセイや講演活動、テレビ出演など積極的に仕事をこなしました。

講演は年に100回以上も行ったといわれています。

仕事に邁進した理由の一つに5億円という借金を背負っていたことが挙げられます。

なぜそのような多大な借金を背負ってしまったのかというと、夫である政孝が建てた豪邸が12億円もしたからです。

夫婦こだわりの家だったようで、140坪の広さがありました。

英国風の大豪邸で、家具一つ一つまで吟味して選んだといっています。

その大豪邸が完成したのは、政孝の胃がんが発見される数か月前のことでした。

当時、逸見政孝は様々な番組に引っ張りだこの司会者だったので、多額のローンでも問題なく返せると考えたのです。

しかし、急な病によって亡くなってしまったので晴恵には借金が残されました。

遺産や保険などがあったため7億円は支払うことができましたが、5億円は借金として残ってしまったのです。

その家を売れば借金は返せますが、夫の思い出が残る家だったので晴恵は住み続けることを決意しました。

仕事に邁進し続けた結果、5億円もの借金をすべて返済しています。



逸見晴恵の最期

逸見晴恵は骨髄異形成症候群という病気を発症し、闘病生活を送るようになります。

骨髄異形成症候群とは血液細胞のがんの一種になります。

晴恵の闘病生活は10年ほど続き、肺胞蛋白症を発症して亡くなりました。

享年61でした。

死に際には、二人の子ども達に家をよろしくといった言葉を残したといいます。

夫が残した家に深い愛着があったことが伺えます。

逸見晴恵の家族

夫である逸見政孝との間に、太郎と愛という子どもがいます。

太郎は芸能界に入り俳優デビューを果たしますが、売れない時期が長く続きました。

テレビ出演することは時々あり、その際に両親が残した家の維持費が年間で200万円もかかるというエピソードを披露しています。

大豪邸だっただけに、維持費もかなりの金額です。

まとめ

逸見晴恵は夫である逸見政孝の死後、夫が残した家を守るために仕事に邁進しました。

5億円という莫大な借金を抱えますが、すべて返済しています。

肺胞蛋白症によって61歳で亡くなりました。

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