「長宗我部盛親」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「長宗我部盛親」の死に際とは?日本の人物

土佐の豪族・長宗我部の家督を継いだものの、後に没落し、再起を図って歴史の流れに抗った男「長宗我部盛親」の晩年やその最期を紹介します。

「長宗我部盛親」とは?簡単に説明

長宗我部盛親は、1575年(天正3年)、長宗我部元親の四男として土佐で生まれました。

1586年(天正14年)、戸次川の戦いで長男の長宗我部信親が戦死したため、家中で後継者争いが起きます。

盛親は四男ながら、父・元親や一部重臣の後押しを受けて、長曾我部の家督を継ぐこととなりました。



「長宗我部盛親」の晩年

関ヶ原の戦いで西軍に属した盛親ですが、自軍の前方に陣取っていた毛利勢が動かなかったため戦の情勢が分からず、長曾我部勢も身動きが取れませんでした。

結局、盛親は戦うことなく土佐へ帰ることになります。

関ヶ原後、長曾我部の領土は没収、改易されました。

徳川にとって危険人物とみられていた盛親は京で謹慎します。

盛親の京での暮らしについては、旧臣の仕送りで生活していた、剃髪して大岩祐夢と名乗った、寺子屋を開いていたなど色々な伝承がありますが、はっきりしたことは分かっていません。



「長宗我部盛親」の死に様

1614年(慶長19年)、徳川と豊臣の関係が険悪になると、盛親は監視役の板倉勝重へ「徳川方について手柄をあげたい」などと?をついて油断させて京を脱出、大坂城へ入りました。

盛親は、長曾我部家の旧臣らを集め、豊臣について戦うことになります。

冬の陣では真田丸付近で徳川の先手を撃退し、夏の陣では徳川の藤堂勢を殲滅させるなどの活躍をした盛親ですが、豊臣は敗れました。

逃げた盛親は、京都八幡付近に潜んでいたところを捕らえられます。

そして、1615年(慶長20年)5月15日、京都の六条河原で処刑されました。

享年41。

「長宗我部盛親」の死に様の信憑性

長宗我部盛親は、徳川(幕府)から危険人物とみられており、京の街中で引きまわされた上で殺されました。

長曾我部の元当主を捕らえ、処刑したことを知らしめるためです。

このことは、色々な史料に記録されていることから、彼の死に様についての信憑性は高いと思われます。

「長宗我部盛親」の小ネタ

「長宗我部盛親」についてさらに詳しく見て行きましょう。

家督争いについて

盛親は、他家を継いでいた次男・香川親和、三男・津野親忠と争った末、家督を継ぎました。

当時幼かった四男の盛親が家督を継げた理由として、親和と親忠が他家の当主となっていたこと、死んだ信親の娘と盛親の年齢が近く、2人を結婚させたかったためなどと言われています。

盛親の家督相続に反対する家臣もいましたが、元親が処断しました。

改易について

関ヶ原後の長曾我部盛親改易の経緯は諸説あります。

・井伊直政を通じて家康へ謝罪しようとしたが、盛親が家臣・久武親直の讒言を受け、兄の津野親忠を殺害したため家康が怒った。

・土佐を没収される代わりに他の領地を与えられるはずだったが、に国替えに不満な家臣らが一揆(浦戸一揆)を起こし、その責任を問われて改易された。

いずれにしても、このとき、戦国大名としての「長曾我部家」は滅びたのです。

まとめ

長宗我部盛親の晩年や最期について紹介しました。

突然の悲劇で家督が転がり込み、波乱の人生を送った盛親。

彼はどんな気持ちで、この戦国を駆け抜けたのでしょうか。

タイトルとURLをコピーしました