不世出の大スター石原裕次郎の晩年と死に際とは?
この記事では石原裕次郎の晩年と最期について迫ります。
「石原裕次郎」とは?簡単に説明
没年から既に40年近くが経過。
石原プロも解散したことで石原裕次郎を知っている方の方が少なくなってきたかもしれません。
さらに銀幕時代を知るのは60代以上の方のため、往時の彼のイメージは「太陽にほえろ」「西武警察」の“ボス”だと言う方が大半だと思われます。
また歌手や実業家としても活躍。
変わったところでは日本のセーリング史に名を残す人物で連盟史にもその名前は刻まれています。
石原軍団として多くの後進を育てた面も評価されていいでしょう。
「石原裕次郎」の晩年
傾きかけた石原プロでしたが「太陽にほえろ」「大都会」「西武警察」のヒットで息を吹き替えします。
また自ら歌った「ブランデーグラス」も大ヒット。
しかし1978年の舌がんを皮切りに晩年は闘病生活の連続でした。
特に1981年の解離性大動脈瘤は生還率3%であり、多くの週刊誌に奇跡の生還の記事が踊り、入院先の慶應義塾大学病院の外には多くのファンが詰めかけます。
現場に復帰するもさらに病魔が彼を襲うのでした。
「石原裕次郎」の死に様
1984年に原発性となる肝細胞がんが発覚し、肝臓がんに罹患するも本人に知らされることはありませんでした。
もともと解離性大動脈瘤の後遺症で熱発が普遍的で体調不良が慢性的になっていたこともあり、本人はガンとは思っていなかったようです。
しかし徐々に身体は病魔に蝕まれていくのでした。
前年からハワイで静養していたものの、1987年4月20日に体調不良から緊急帰国。
慶応大学病院へ入院します。
5月2日に退院したものの翌日再入院することとなりました。
さらに容態は悪化し肝性昏睡で幻覚症状も発現し、意識障害から回復することはありませんでした。
7月17日15時43分に一旦は臨終を迎えるも蘇生。
しかし16時26分に再度心停止し死亡が宣告されます。
享年53。
「石原裕次郎」の死に様の信憑性
当時の日本では石原裕次郎を見て育ってきた人も多く、その死は衝撃的なものとなりました。
現在のようにインターネットはない時代でしたが、テレビ・紙媒体・週刊誌は隆盛期であり、こぞってマスコミは取り上げています。
病状はもちろん解離性大動脈瘤や肝細胞癌という聞きなれない病名・症状が子供にも知られるほどで、それだけの影響力があったのは間違いありません。
まとめ
1987年7月17日16時26分、石原裕次郎は52歳(享年53)で永眠しています。
死因は1984年に罹患した肝細胞癌が原発だと言っていいでしょう。
最期までガンは告知されることはありませんでした。
また脳性肝症により最後の数ヶ月は昏睡状態で意識不明の状態でその時を迎えています。