「足利尊氏」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「足利尊氏」の死に際とは?日本の人物

足利尊氏は、室町幕府を創設した人物として有名です。

足利尊氏がどんな晩年と最期を送ったのか紹介します。

足利尊氏とは?

足利尊氏は、鎌倉幕府の御家人だった足利貞氏の次男として誕生します。

足利氏の家督は兄の高義が継ぐはずでしたが、早世したため尊氏が継ぐこととなりました。

後醍醐天皇が鎌倉幕府を打倒するべく挙兵して元弘の乱を起こすと、幕府軍として上洛します。

しかし、後醍醐天皇の側に寝返り、鎌倉幕府の滅亡に加担しました。

後醍醐天皇による建武の新政が行われると、尊氏は功臣として遇されます。

ところが建武政権に不満を持つ武士が多かったため、尊氏は光明天皇を新天皇に立てて北朝を起こし室町幕府を開きました。



足利尊氏の晩年

足利尊氏は、光明天皇から征夷大将軍に任じられます。

これにより室町幕府が成立したのです。

後醍醐天皇は京から逃れた吉野で独自の朝廷を開きました。

それにより南北朝の時代へと突入しましたが、尊氏が征夷大将軍となった翌年後醍醐天皇は病に倒れ亡くなっています。

尊氏は武家政治を開始するのですが、弟である足利直義との間で内紛が生じました。

足利政権では尊氏が軍事指揮権を持ち、弟の直義が政務を担う二頭体制が築かれていました。

尊氏を補佐したのが、高師直という側近の武将です。

師直派と直義派が対立する構図となり、観応の擾乱が勃発しました。

最終的に高師直は直義派の武将に殺害され、直義は尊氏に幽閉され亡くなりました。

直義が急死したのは病のためとも、尊氏が毒殺したからとも言われていますが明確なことは分かっていません。



足利尊氏の最期

観応の擾乱は終結しましたが、南朝方の勢力や直義派だった残党はまだ残っていました。

尊氏は襲撃を受け、何度か京を奪われますがその度に奪還しています。

そして52歳の時に、背中にできた腫物が原因で京都において亡くなりました。

足利尊氏をめぐる逸話

足利尊氏と敵対した人物の一人に、足利直冬がいます。

直冬は実は尊氏の庶子で、弟である直義の養子となります。

尊氏には嫡男の義詮がおり、義詮の母は正室である登子です。

直冬は尊氏から実子とは認められず、父子として対面したいと申し出ても許されなかったといいます。

そのため子どものいなかった直義の養子となりました。

直義が失脚した頃、直冬は九州で直義派として勢力を伸ばしていました。

尊氏は直冬の討伐命令を出します。

九州で勢力が弱まった直冬でしたが、直義が亡くなると南朝の勢力に組し旧直義派の勢力を結集して尊氏を襲撃しました。

尊氏は直冬の本陣に自ら突撃して勝利をおさめますが、直冬を討ち取ることはできませんでした。

まとめ

足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開きます。

弟の直義と二元体制となる武家政治を始めますが、政治方針をめぐって内紛を招きました。

また、尊氏の実子で直義の養子となった直冬とも骨肉の争いを繰り広げます。

そして52歳で亡くなりました。

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