「斎藤龍興」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「斎藤龍興」の死に際とは?日本の人物

「蝮の道三」でも有名な斎藤氏を継ぐも、凋落を招いてしまった「斎藤龍興」はどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「斎藤龍興」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「斎藤龍興(さいとう たつおき)」とは?簡単に説明

「斎藤龍興」「美濃の蝮(まむし)」の異名で知られる「斎藤道三(さいとう どうさん)」から続く道三流斎藤家の3代目にあたる戦国大名です。

「義龍(よしたつ)」が死去したことにより、14歳の若さで美濃斎藤氏の家督と美濃国(現在の岐阜県南部)を継承しました。

しかし、悪評高い「斎藤飛騨守」を重用するなどして、有力家臣たちの離反を招いてしまいます。

それでも、酒色に耽り続けた結果、永禄7年(1564年)に居城である「稲葉山城」を家臣の「竹中半兵衛(たけなか はんべえ)」らに乗っ取られてしまいました。



「斎藤龍興」の晩年と最期

その後、一旦「稲葉山城」は返されるも、美濃国は次第に「信長」の手中に収められていきました。

そして、永禄10年(1567年)の「稲葉山城の戦い」にて、「稲葉山城」は陥落、「斎藤龍興」は伊勢国(現在の三重県、愛知県、岐阜県の一部)の長島へと落ち延びます。

亡命後も、他の「信長」抵抗勢力と協力して、織田軍を相手に戦いを繰り広げました。

元亀元年(1570年)の8月には「野田城・福島城の戦い」にて「三好三人衆」を支援し、同年9月から勃発した「長島一向一揆」にも参戦しています。

やがて、縁戚関係であり、同じく「信長」と敵対していた「朝倉義景(あさくら よしかげ)」に保護されます(もしくは、客将として扱われていたとも)。

天正元年(1573年)の8月に「信長」との戦いのために「義景」が近江国へ向けて出陣すると、「斎藤龍興」もこれに従いました。

そして、同年8月14日に「刀根坂の戦い」にて織田軍の追撃を受け、享年26歳で戦死しました。



「斎藤龍興」の死に様の信憑性

旧臣の「氏家直元/卜全(うじいえ なおもと/ぼくぜん)」の息子「氏家直昌(うじいえ なおまさ)」に斬られたとも云われていますが、一方で、いくつかの生存説も挙げられています。

「斎藤龍興」生存説

興国寺の伝説では、「斎藤龍興」は越中国(現在の富山県)へ落ち延び、その後、「九右ェ門」と名を変え、付近の土地を開拓し、一族と住みついたとされています。

また、鳥羽の伝承では、「斎藤龍興」「刀根坂の戦い」を生き延び、「信長」抵抗勢力である「本願寺」と合流を果たしたと伝えられています。

その後、再起を図るも、志半ばで病没したそうです。

まとめ

「斎藤龍興」「斎藤道三」より続く道三流斎藤家の3代目であり、美濃国の領主となった戦国大名です。

若くして当主となるも、家臣たちの信頼を得られず、斎藤氏の衰退と「信長」の領地侵攻を許してしまいます。

領地を追われた後も、他の勢力と「信長」への抵抗を続けますが、天正元年(1573年)8月14日の「刀根坂の戦い」で戦死したとされています。

一方で、生存にまつわる伝説や伝承も残っているようです。

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