森鴎外は明治から大正時代にかけて活躍した小説家で、陸軍の軍医も勤めていました。
森鴎外の晩年と最期について紹介します。
森鴎外とは?
森鴎外は津和野藩でご典医を務める家柄に生まれ、東京大学医学部を卒業します。
その後、陸軍の軍医となりました。
幼い頃から論語やオランダ語、ドイツ語などを学んでいたといいいます。
そして、陸軍省に入省して半年後にドイツに留学し、衛生学を学びました。
その際、多くの文学作品にも触れています。
帰国すると陸軍で働く傍ら、文学の創作活動も行うようになります。
「舞姫」や「うたかたの記」「文づかひ」といった作品を次々発表しました。
森鴎外の晩年
森鴎外は、陸軍の軍医としてトップの地位にまで上り詰めます。
1907年に陸軍省医務局長に就任します。
陸軍省医務局長は、人事権を有する軍医のトップの地位に当たります。
森鴎外は陸軍医務局長を8年半ほど務めました。
その後、予備役となると帝室博物館の総長や帝国美術院の院長などを歴任しました。
また、宮内省の図書頭も務めており、天皇の諡や元号の考証なども行っています。
そして、その間も執筆活動は精力的に行いました。
小説や戯曲を多数執筆し、歴史小説にも挑戦しています。
外国文学の翻訳も行っており、ゲーテの「ファウスト」を翻訳したのも森鴎外です。
森鴎外の最期
森?外は、1922年に腎萎縮と肺結核によって亡くなりました。
享年60です。
森鴎外の代表作「舞姫」
森鴎外の作品といえば、「舞姫」がよく知られています。
これは外国に留学した日本人の青年と現地の踊り子の女性との悲恋を描いた作品です。
森鴎外の自伝的な作品といわれており、当時の人々にとっては外国人と日本人の恋を描いた作品は非常に新鮮でした。
実は舞姫にはモデルの女性がいます。
森鴎外にはドイツ留学中に知り合ったエリーゼという女性がおり、森鴎外が帰国するとその後を追いかけて日本にやってきています。
エリーゼは1か月ほど日本に滞在してからドイツに戻りましたが、その経験が「舞姫」に取り入れられているのは間違いないでしょう。
森鴎外をめぐる逸話
森鴎外には、夭折した子を含め5人の子供がいます。
その子供達の名前が当時としてはとても珍しいものでした。
於菟(おと)・茉莉(まり)・杏奴(あんぬ)・不律(ふりつ)・類(るい)です。
このような名前を付けたのは、 世界に通じる名前にしたいという思いがあったからだといわれています。
森鴎外の本名は林太郎というのですが、外国人には発音しづらかったといいます。
子ども達は森鴎外の文才を受け継いだようで、随筆や小説などを書き記しています。
まとめ
森鴎外は陸軍の軍医を務め、軍医のトップの地位にまで上り詰めます。
その傍ら文学活動も精力的に行っていました。
外国文学を翻訳したりもしています。
晩年になっても執筆活動は衰えませんでした。
そして、60歳の時に腎萎縮と肺結核によって亡くなっています。