「竹中半兵衛」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「竹中半兵衛」の死に際とは?日本の人物

若き日の秀吉に仕え、黒田官兵衛と並んで「二兵衛」「両兵衛」と称された天才軍師「竹中半兵衛」の晩年やその最期を紹介します。

「竹中半兵衛」とは?簡単に説明

竹中半兵衛は、1544年(天文13年)、美濃斎藤氏の家臣・竹中重元の子として生まれました。

「半兵衛」は通称で、正式な名前は「竹中重治」です。

道三、義龍、龍興の三代に渡って斉藤氏に仕え、後に隠遁、斉藤家没落後は近江浅井氏の客分となりましたが、約1年後、再び故郷で隠遁しました。

その後、木下秀吉(後の羽柴・豊臣秀吉)の誘いを受け、織田家に仕え、以降は主に秀吉の与力として働くこととなります。



「竹中半兵衛」の晩年

織田家に仕えた半兵衛は、浅井攻めの際に調略活動で成果を上げたほか、中国遠征でも秀吉に従って随身し、ここでも調略によって宇喜多氏の城を落としています。

中国攻めの功は(半兵衛一人の手柄ではありませんが)、信長から激賞され、褒美として銀子100両を受け取っています。



「竹中半兵衛」の死に様

1578年(天正6年)信長に謀反を起こした荒木村重を説得しに行った黒田官兵衛が有岡城へ監禁されると、信長は官兵衛が裏切ったと思い、官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の処刑を秀吉に命じます。

この時、半兵衛は偽の首を提出させて、松寿丸を自分の領地での匿い、命を助けました。

後に有岡城から助け出された官兵衛は、半兵衛に強く感謝しました。

1579年(天正7年)4月、三木城の包囲中に病を発し、6月22日に陣中で死去しました。

享年36。

「竹中半兵衛」の死に様の信憑性

竹中半兵衛の死は、史料としての信頼性が高いと評される「信長公記」にも書かれていることから、その死に様についての信憑性は高いと考えられます。

「竹中半兵衛」の小ネタ

「竹中半兵衛」についてさらに詳しく見て行きましょう。

半兵衛の稲葉山城攻め

半兵衛が斉藤家に仕えていた頃、主君・龍興が政務を顧みず、半兵衛らを遠ざけていました。

このため、半兵衛は、舅である安藤守就の手勢と共にと龍興の居城・稲葉山城を襲って龍興を逃亡させ、稲葉山城を占領しました。

後に城を放棄しますが、稲葉山城は、信長が何度攻めてもなかなか落とせなかった城です。

このエピソードからも、半兵衛の軍略が卓抜していることがうかがえます。

隠れた実力者?

実は「信長公記」などの史料に、半兵衛についての記述が少なく、彼の実態はよく分かっていません。

現在語られている半兵衛の活躍の多くは、江戸時代以降に書かれた軍記物などで創作されたものがほとんどです。

しかし、信長や秀吉に重用されていたのは本当のことなので、秀吉が上げた数々の功績を陰ながら助けていたのかもしれません。

まとめ

竹中半兵衛の晩年や最期について紹介しました。

秀でいた能力を持ち、黒田官兵衛の息子・松寿丸を助けたエピソードから、人柄の良さも伝わってきます。

もし彼がもっと長く生きていたら、天下人・秀吉の元でどんな存在となっていたのでしょうか。

若くして没したことが悔やまれる人物です。

タイトルとURLをコピーしました