「篠原国幹」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「篠原国幹」の死に際とは?日本の人物

篠原国幹は明治の陸軍軍人でしたが、西南戦争では反乱士族側に組して戦死しています。

篠原国幹はどのような晩年と最期を迎えたのでしょうか。

篠原国幹とは?

篠原国幹は、薩摩藩の篠原善兵衛の子として誕生しました。

藩校であった造士館で学び、勤王運動を志すようになります。

そして、1862年に寺田屋事件と呼ばれる有馬新七らが企てた挙兵倒幕運動に参加しますが、島津久光に鎮圧されて謹慎処分を受けます。

戊辰戦争では薩摩藩の隊長として参戦しています。

その際、会津城の攻略に参加して軍功を上げました。

明治維新後は、鹿児島常備隊の隊長となります。



篠原国幹の晩年

篠原国幹は1871年、西郷隆盛に従って上京します。

西郷は5000人の常備隊を率いており、篠原もその一部を任されていました。

この時の常備隊を明治政府は御親兵に組み入れて、廃藩置県を行っています。

その際、篠原は陸軍大佐に任じられました。

その後、陸軍少将にまで昇進しています。

近衛局に出仕し、近衛長官となりました。

篠原が軍事演習の指揮をとっているところを見た明治天皇が、その姿にいたく感心したという話も伝えられています。

しかし、1873年に西郷隆盛が征韓論争に敗れて鹿児島に帰郷すると、篠原も後を追って鹿児島に帰ってしまいました。

近衛長官という役職を捨てて、西郷についていく道を選んだのです。

篠原は軍人として非常に有能で周りから高く評価されていましたから、明治政府や陸軍にとっては大きな痛手となりました。



篠原国幹の最期

鹿児島に戻った篠原国幹は、篠原と同様に陸軍の地位を投げ打って西郷の後を追った村田新八や桐野利秋と共に私学校を設立します。

私学校の監督となり、人材の育成に携わりました。

1877年に弾薬庫襲撃事件が起きると、それがきっかけとなり西南戦争が勃発します。

篠原は部隊編成を担当し、一番大隊指揮長として出陣します。

そして田原坂の戦いにおいて被弾し、戦死しました。

享年41です。

篠原国幹をめぐる逸話

篠原国幹は、とても寡黙な人物だったといわれています。

ほとんど喋ることがなく、戦闘の際に指揮を執る時にも大声を出すことはなかったといいます。

身振りによって指揮をとっていたようです。

また、学者肌でもあり、造士館では和漢学を学んで句読師にまでなりました。

大人になってからも和漢学の本を読むことを好んだとされます。

その一方で剣の達人でもあり、剣術では薬丸自顕流や常陸流、神道無念流などを学んでいます。

剣術以外にも馬術や槍術、弓術などを極めており、文武両道であったことが伺えます。

戊辰戦争の際にも勇猛果敢な戦いぶりを見せています。

まとめ

篠原国許は明治維新後、陸軍少佐となり近衛長官を務めていました。

西郷隆盛が征韓論争に敗れて鹿児島に帰郷すると、近衛長官の役職を投げ打ち西郷の後を追っています。

西南戦争が勃発すると一番大隊指揮長として出陣し、敵から被弾を受けて戦死しました。

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