「吉川元春」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「吉川元春」の死に際とは?日本の人物

戦国武将の「吉川元春」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?

こちらの記事では、戦国時代の猛将として知られる吉川元春の死に様を中心にこの人物について説明致します。

「吉川元春」とは?簡単に説明

吉川元春は、中国地方の戦国大名として知られる毛利元就の次男として、1530年に誕生した人物です。

母は吉川国経の娘の妙玖であり、同母の兄には毛利隆元が、弟には小早川隆景がいます。

この様に毛利家で誕生した元春ですが、父の元就により1547年に母方の従兄である吉川興経の養子として送り込まれたのです。

その後、元就が興経を強制的に隠居させた事で、元春は吉川氏の当主の座に就きました。

更に小早川家の当主となった弟の隆景と共に、毛利の両川と呼ばれる様になり、毛利家を支える役割を担って行く事となったのです。

迎えた1555年、安芸国厳島にて毛利元就と陶晴賢との間で起きた厳島の戦いで元春は、元就を補佐する役割として勝利に貢献しました。

その後も尼子再興軍や大内一族との戦にも参加して勝利を収めた事で、猛将として知られる様になったのです。

加えて織田軍の毛利攻めの際にも救援に駆け付け、豊臣秀吉と戦う事になります。

ですがその際に秀吉は水攻めを駆使して毛利軍の戦意を削いでものの、秀吉は元春達の猛攻を恐れて手出し出来ず膠着状態に陥ったのです。

その時に、本能寺の変が発生し、秀吉は毛利側と急いで和睦して中国大返しをしました。



「吉川元春」の晩年

1582年の末、元春は吉川家の家督を嫡男の元長に譲って隠居したのです。

これは明智光秀を討ち、信長の後を継いだ秀吉の家臣になる事を嫌った故の行動だと言われています。

こうして隠居の身となった元春は、隠居館の建設を開始したのです。

ですが後に吉川元春館と呼ばれる様になるこの隠居館は、残念ながら元春の存命中に完成する事はありませんでした。

その後、毛利家は豊臣秀吉の天下取りに協力する事となり、1585年の四国征伐に参加する事になったのです。

ですが弟の隆景と吉川家自体は参加したものの、元春は隠居を理由に参加する事はありませんでした。

所が翌1586年、天下取りへと突き進む豊臣秀吉の強い要請と共に、弟の隆景や甥の輝元らの説得により、隠居の身でありながら、九州平定には参加したのです。



「吉川元春」の死に様

九州攻めに参加した時には、吉川元春は既に化膿性炎症か或いは癌に蝕まれた状態だったと言われています。

そんな風にして病を押しての参加であったため、病状が悪化した結果、1586年11月15日に出征先である豊前小倉城二の丸で、57歳で死去したのです。

ただし一説によると陣中で黒田官兵衛から贈られた、鮭が原因で死亡したとの話もあります。

というのも元春は、鮭は自分が煩っていた病気を悪化させると知りながらも、贈ってくれた官兵衛への感謝の気持ちから食したと言われているのです。

「吉川元春」の死に様の信憑性

元春の命日等の記録が残っている事から、豊前小倉城で亡くなったのは間違いありません。

ただし黒田官兵衛から贈られた鮭が原因か否かまでは、明確ではないです。

もっとも吉川元春という人物の義理堅さを表すための、逸話である可能性も高いと言えます。

まとめ

元春は中国地方の大名である毛利元就の次男として生まれた後、吉川家に養子に出され吉川元春となったのです。

弟の小早川隆景と共に、毛利の両川として毛利家を支え続け、猛将として知られる人物となりました。

そんな彼は57歳の時に秀吉の要請により参加した九州平定の際に、豊前小倉城で病死したのです。

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