「伊達輝宗」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「伊達輝宗」の死に際とは?日本の人物

独眼竜・伊達政宗の父である「伊達輝宗」

政宗の才能を見抜き、政宗に後事を託した後、壮絶な最期を遂げた彼の晩年や最期を紹介します。

「伊達輝宗」とは?簡単に説明

伊達輝宗は1544年(天文13年)、伊達晴宗の次男として生まれました。

長男の親隆は、他家の養子となったため、輝宗が家督を継ぎました。

当初は、父・晴宗や有力な家臣が実権を握っていましたが、時間をかけて家中の統制を図り、少しずつ実権を握っていきます。

また、戦や外交でも能力発揮し、自身の勢力拡大と奥州の静謐を図りました。



「伊達輝宗」の晩年

輝宗は、長男の政宗を早くから見抜き、目をかけていました。

僧の虎哉宗乙を招いて学問の師としたり、片倉景綱ら、後に政宗の重臣となる若者を早くから政宗に仕えさせたりするなど、熱心に政宗を育てます。

そして、1584年(天正12年)、輝宗は友好関係にあった蘆名盛隆の子・亀王丸の後見となるとともに、隠居して政宗に家督を譲りました。

家督を継いだ政宗は、輝宗が進めてきた奥羽の大名・豪族との友好路線を外れ、伊達家単独での躍進を目指します。

このことが他家の不信感を募らせ、関係が険悪になっていきました。



「伊達輝宗」の死に様

1585年(天正13年)、政宗は、調停のもつれなどにより、大内氏や蘆名氏と険悪になます。

5月に芦名を攻め、これに失敗すると、大内と姻戚の二本松城主・畠山義継へ攻めました。

10月、義継は降伏を申し入れて和睦しますが、輝宗へあいさつに訪れた際、輝宗を捕えらてしまいます。

同席していた伊達成実と留守政景が追いかけましたが、阿武隈川河畔の高田原に至ったところで、輝宗は「自分を撃て」と叫びました。

伊達勢は鉄砲射撃を行い、輝宗を巻き込んで義継らを殺しました。

伊達輝宗、享年42。

「伊達輝宗」の死に様の信憑性

伊達輝宗が、畠山義継に捕らえられ、そのゴタゴタの中で死んだことは、多くの資料に記されているため、信憑性は高いと考えられます。

ただ「輝宗が死んだ現場に政宗がいて、政宗が鉄砲を撃たせた」「政宗が、輝宗や畠山らを撃つ覚悟を決めると、畠山が輝宗を刺殺した」などの説もあります。

いずれにしても、畠山に捕らえられたことがきっかけで死んだことはほぼ間違いないでしょう。

「伊達輝宗」の小ネタ

輝宗は、家柄や身分にとらわれることなく、功に報いて家臣を取り立てたため、名君の呼び声高くとても人望の厚い主君でした。

家臣の忠誠は厚く、輝宗が死んだとき、重臣の遠藤基信が輝宗の墓前で自刃した他、多くの家臣が殉死したため、伊達家中で殉死が禁止されるほどだったと言われています。

まとめ

伊達輝宗の晩年や最期について紹介しました。

家督を継がせた息子の急激な路線変更の煽りを受けて命を危険にさらすこととなった輝宗。

にもかかわらず、人質になった際、自身の命を顧みず敵を撃たせた彼の覚悟や思いは並々ならぬものです。

戦国でもあまり例のない死に様でしょう。

輝宗の壮絶な死に様が、後の独眼竜の飛躍を後押ししたのかもしれません。

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