「本多忠勝」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「本多忠勝」の死に際とは?日本の人物

みなさんは、「本田忠勝」という歴史上の人物をご存じでしょうか。

本田忠勝は徳川家康の家来として1500年代後半から1600年代にかけて活躍した人物で、その勇猛さと特徴的な見た目から現在でも多くの人気を集めている武将です。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人の時代を戦い抜いた本田忠勝は、その時代を語る上で避けては通れません。

今回は、そんな本田忠勝の晩年やその死に様について解説していきます。

「本田忠勝」とは?簡単に説明

本田忠勝は天文17年(1548年)に本田忠高の長男として三河国(現在の愛知県岡崎市周辺)に生まれ、幼い頃から徳川家康に仕えました。

彼は13歳で初陣を果たしてから生涯で57回もの戦に出陣し、そのいずれの戦においても傷を負ったことはなかったと伝えられています。

その勇猛果敢ぶりは織田信長が「花も実も兼ね備えた武将である」と言い、豊臣秀吉が「日本第一、古今独歩の勇士」と称したほどで、仕えていた徳川家康も「まことに我が家の良将なり」と言って「徳川四天王」「徳川十六神将」「徳川三傑」などに数えられるなど、三人の天下人が口を揃えて称えるほどのものでした。

そんな本田忠勝といえば大きな鹿の角をあしらった「鹿角脇立兜」という兜と、長さ6mを超え「天下三名槍」の一つにも数えられる長槍「蜻蛉切」がトレードマークで、彼の強さと合わせてその見た目の派手さも彼が今でも愛されている理由の一つでしょう。



「本田忠勝」の晩年

本田忠勝はその功績から晩年は桑名の地で10万石の城主に収まりましたが、一国の主となることを望み家臣に与える目録まで作っていた彼はとても落胆していたようです。

そして、勇猛果敢で名をはせた本田忠勝も寄る年波には勝てず、晩年は病に伏せがちになってしまい徳川幕府の中枢からは離れていきました。

槍は自分の力に合うものが一番という考えから、彼の名槍「蜻蛉切」も短く切り詰めてしまうほど力が衰えてしまっていたようです。



「本田忠勝」の死に様

戦場で一つも傷を負わなかったとされる無敵の本田忠勝ですが、死の直前に彫刻刀で自分の指を切ってしまい、このことで死期を悟ったとされています。

そして、豊臣秀吉の家来として勇猛果敢に戦場を駆け抜けてきた彼も、慶長14年(1609年)には息子の忠正に家督を譲り隠居し、翌年の10月18日に享年63歳で静かに息を引き取りました。

晩年は少し不遇な扱いを受けていたとも評されることがある本田忠勝ですが、「死にともな・嗚呼死にともな・死にともな・深きご恩の君を思えば」という彼の辞世の句からは、死の床についてなお主君である徳川家を想う深い忠誠心が伝わってきます。

まとめ

現代ではドラマやテレビゲームなどに登場し、今でも多くの人々に愛され続けている本田忠勝、生涯に57回もの戦を無傷で駆け抜けた彼は、当時だけでなく現代でもその名を広く轟かせるに値する稀代の猛将でした。

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