この記事では、「黒川紀章」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「黒川紀章」とは?
「黒川紀章」とは日本を代表する建築家の一人で、中銀カプセルタワービルや寒河江市役所、国立新美術館、クアラルンプール国際空港、和歌山県立近代美術館などの設計を手掛けました。
1986年にはランス建築アカデミーのゴールドメダルを受賞するなど、国際的にも評価の高い建築家です。
「黒川紀章」の代表作は1972年に東京の銀座で竣工された中銀カプセルタワービルで、部屋をカプセルとして交換できるのがコンセプトになっています。
「黒川紀章」の晩年
「黒川紀章」は世界的にも知られた建築家ですが、晩年は政治活動に取り組んでいました。
2007年には共生新党という政治団体を結成し、東京都知事選挙に立候補しました。
東京オリンピックの招致の中止といった公約を掲げて選挙活動を行います。
しかし、霞が関を首都機能移転によって空洞にし、低価格で入れる庶民向けの住宅を作るとか社会主義的な思想を広めたいなどエキセントリックな発言で注目されました。
都知事に就任しても建築家の仕事は続けるといった発言もしています。
選挙活動では、シボレーのキャンピングカーを改造した選挙カーやクルーザーを使って派手に行いました。
妻である女優の若尾文子も応援に駆け付けています。
都知事選には落選し、その数か月後に行われた参議院議員選挙にも立候補しますが落選しています。
「黒川紀章」の死に様
「黒川紀章」は、参議院議員選挙が行われた2か月後の2007年10月17日に亡くなります。
73歳でした。
死因はすい臓がんです。
「黒川紀章」の死に様の信憑性
「黒川紀章」は亡くなる2年程前からすい臓がんを患っていました。
しかし、周囲には明かしておらず、妻である若尾文子にも亡くなる直前に打ち明けたといいます。
都知事選や参議院議員選挙に出馬した際には、すでに末期がんの状態でした。
死を前にして、社会に一石を投じたいという思いがあったのかもしれません。
また、亡くなる間際に夫人が「私、あまりいい奥さんじゃなかった」と言ったら「そんなことない。
本当に好きだったんだから」と答えたというエピソードもあります。
最後の会話をした次の日に亡くなったといいます。
まとめ
「黒川紀章」は晩年、政治活動を行い都知事選や参議院議員選挙に出馬していました。
すい臓がんを患っており、すでに末期がんの状態だったといいます。
そして、73歳で亡くなりました。