ビートたけしがネタにした数々の伝説、歌謡界の大御所「村田英雄」の散り際とは?
この記事では村田英雄の晩年と散り際について解説します。
「村田英雄」とは?簡単に説明
昭和の歌謡界で「三波春夫」氏と双璧、かつライバル関係にあったのが「村田英雄」氏だと言っていいでしょう。
三波氏が現代風にかつてのヒット曲をリメイク。
時代に併せて変化させたのとは逆に最後まで王道の演歌を貫きました。
歌謡界の大御所として知られる反面、「ビートたけし」氏発端の“男・村田英雄”伝説はあまりにも有名。
大スターゆえに庶民の生活、常識を知らない非日常的キャラクターは独り歩きすることになっていきます。
いわゆる大御所キャラのはしりともいえる人物でしょう。
「村田英雄」の晩年
糖尿病を若い頃から患っており、96年に片脚を切断したのは有名な話。
晩年は糖尿病の進行がさらに加速、満身創痍となってしまいます。
00年には左脚も切断して完全に車椅子生活となってしまいました。
さらにはライバル関係にあった同期の「三波春夫」氏も7年の闘病生活を終えて永眠。
「三人の会」の春日八郎、三橋美智也両氏に続いて同期の戦友を失ったことは大きな精神的ダメージを受けることとなりました。
しかし残された時間はもはや少ないと悟ると、春日、三橋両氏との約束を果たすべく奔走。
なんとか三人によるオリジナル楽曲のリリースまでこぎつけるのでした。
「村田英雄」の死に様
2002年6月13日午前9時52分、90年代に拠点を移した大阪の地で永眠。
死因は糖尿病の悪化に伴う肺炎によるものでした。
「村田英雄」の死に様の信憑性
往年の写真を見たことがある方ならわかると思いますが、晩年はものまね番組で見せていたふくよかな姿とはほど遠く痩せてしまいました。
また70代前半とは思えぬ外見になってしまったのも糖尿病による激ヤセが関与していると言っていいでしょう。
若い頃の偏食から生じた糖尿病は前妻、友人の春日氏を亡くした91年から加速度的に悪化の一途を辿っています。
ほぼ晩年の10年は闘病生活に明け暮れる日々が続いたと言っていいでしょう。
95年の急性心筋梗塞、鬱血性心不全を皮切りに心臓の調子もよくなく、96年に大動脈バイパス手術を受けています。
また両目ともに糖尿病による白内障、網膜症を発症。
複数回の手術を受けました。
02年の5月中旬から入院して加療を続けましたが、既に身体はボロボロでした。
容態が急変したのは亡くなる2時間ほど前とされ、血圧が低下。
家族に看取られながら、静かに息を引き取ったとされます。
まとめ
2002年6月13日9時52分に「村田英雄」氏は生活拠点を移していた大阪の地で永眠しています。
73歳没。
死因は糖尿病の合併症の肺炎。
同年5月より入院、加療を続けていましたが力尽きてしまいました。
晩年も歌を歌い続ける執念を見せており「三人の会」春日、三橋両氏との約束に応える形で『哀愁』『男のふるさと』をリリース。
これは東芝EMIとキングレコード、所属レコード会社の垣根を越えた異例の作品となりました。