「高橋是清(たかはしこれきよ)」とは?
高橋是清の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「高橋是清」とは?簡単に説明
高橋是清は生涯に7度も大蔵大臣を務め、内閣総理大臣にまで上り詰めた人物ですが、若いころは放蕩三昧で芸者遊びに明け暮れる毎日だったようです。
その後、職を転々とした後に日本銀行に入行し、のちに「財政の天才」と呼ばれる才能を開花させ、行内で頭角を現します。
その後、日銀総裁を経て山本権兵衛内閣で大蔵大臣となり財政政策を成功させたことから、生涯で7度も大蔵大臣を歴任することになります。
しかし1935年にとった軍事費縮小策を巡り軍部と対立し、「二・二六事件」での暗殺につながっていきます。
「高橋是清」の晩年
特に1931年から1936年の間に行なわれた高橋の財政施策は「高橋財政」と呼ばれ、現在でも高く評価されています。
1934年の岡田啓介内閣での入閣時は実に7度目の大蔵大臣就任でした。
しかし、大陸への勢力拡大を目論み、莫大な予算を要求する軍部(陸軍)と財政健全化を目指し軍事費を抑制しようとする高橋は激しく対立します。
このことから「二・二六事件」での最大のターゲットとなるのは高橋是清だったようです。
「高橋是清」の死に様
1936年(昭和11年)2月26日、皇道派の青年将校による反乱事件が勃発し、大蔵大臣・高橋是清ら政府の要人3名が暗殺されます。
世にいう「二・二六事件」です。
同日午前5時頃、中橋基明中尉および中島莞爾少尉の率いる約100名の襲撃部隊が、東京都赤坂表町3丁目の高橋是清の自宅に襲撃をかけました。
警備の警察官が奮戦しますが、自宅の2階寝室にいた高橋是清は襲撃部隊から6発の銃撃を受け、軍刀でとどめを刺されます。
高橋は即死だったとのことです。
なお、高橋は襲撃に来た将校たちの足音を聞いた際に「屋根から雪でも落ちた音だろう」と言ったとされています。
また、銃撃を受ける直前には「何をするか!」と将校たちを一喝したともいわれています。
どちらも本当だとすると高橋は最期の言葉「何をするか!」で将校たちを一喝しながらも問答無用とばかりに銃撃され亡くなったことになります。
「高橋是清」の死に様の信憑性
高橋是清の最期の様子は、事件発生後二十数日経過した3月23日付の読売新聞に掲載されています。
これによると、上述した高橋是清の最期の言葉は正しいようです。
「屋根から雪でも落ちた音だろう」と言ったのは、騒然たる様子を心配して高橋の寝室に飛び込んできた女中の阿部ちよに対してのようです。
その時の高橋の様子から、すでに高橋はすべてを理解し、覚悟を決めていたようです。
まとめ
高橋是清は「財政の天才」という異名から数字に強い物凄いキレ者という印象を受けがちですが、実は頼まれたら断れないタイプの人間で、だまされやすいという側面があったようです。
また大の酒好きで、衆議院の本会議場でも堂々と酒を飲んでいたそうですが、誰も彼を咎める人はいなかったという愛すべきキャラクターでもあったようです。