「源頼家(みなもとのよりいえ)」とは?
源頼家の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「源頼家」とは?簡単に説明
源頼家は、鎌倉幕府の第2代将軍(鎌倉殿)だった人物です。
父は源頼朝、母は北条政子で、父・頼朝の急死に伴い18歳で家督を相続するも、この時に頼家の専制を抑えるため、十三人の有力御家人による合議制が敷かれたとされています。
1203年(建仁3年)、頼家が重病に陥った際、頼家が頼りにしていた乳母父で後見人の比企能員一族が北条時政によって滅ぼされ、鎌倉殿の地位も追われて伊豆国修善寺に幽閉されます。
そして北条義時の手勢によって殺害されたとされています。
「源頼家」の晩年
源頼家の晩年は伊豆国修善寺における幽閉生活となります。
『吾妻鏡』によると、幽閉された頼家から幕府に届いた手紙には〈深山に幽棲し、徒然を忍び難し〉と山奥での暮らしが寂しく、かつての側近修善寺に寄越して欲しいと切に訴えています。
しかし、その願いも叶うことなく、絶望と無念の晩年だったようです。
「源頼家」の死に様
源頼家は1204年(元久元年)7月18日に21歳の若さで亡くなりました」。
北条氏が放った刺客によって殺されたものとされています。
しかし、世間にはその時の頼家の壮絶なる最期の様子が伝わっています。
その日、頼家が修善寺の門前にあった「筥湯(はこゆ)」というところで風呂に入っている時でした。
修善寺は温泉で有名なところですので、この後に起こる悲劇のことは露知らずゆったりと温泉を楽しんでいたことでしょう。
頼家は幼い頃から武芸に通じていたこともあり、その武芸を警戒した刺客は丸腰の状態である入浴時を狙ったものと考えられます。
思えば頼家の祖父に当たる源義朝も平治の乱で敗れ敗走する途中に匿ってもらった長田忠致によって入浴中に騙し討ちされています。
武芸が達者な者に対しては丸腰の入浴中を狙って暗殺を実行するというのは常套手段のようです。
ただ、そうした作戦を取って優位に仕留めようとしましたが、頼家が意外に強かったのか、刺客は頼家の凄まじい抵抗に合います。
そのため、最終的に刺客は頼家の首に縄をかけ、「ふぐり(陰嚢のこと。
いわゆる男性の急所)」を掴み取って悶絶死させた、あるいはふぐりを取ることで頼家の抵抗を弱め刺し殺したとされています。
一説には陰茎まで切り落とされたとあり、何とも壮絶な死に方だったようです。
「源頼家」の死に様の信憑性
源頼家の死に関しては『吾妻鏡』には頼家が亡くなった知らせが幕府に届いたという記載しかありません。
『吾妻鏡』は鎌倉幕府の公式の歴史書と言われていますが、第2代将軍だった人物の死に関する記載がこれだけしかないのはあまりにも不自然です。
歴史の真実とは勝者の都合のよいように書き直され、歪曲されがちですので、ここにも時の権力者である北条氏の意向が大きく反映しているようです。
天台宗の僧・慈円はその著書『愚管抄』で上述のことを書き残しています。
よって、上述した源頼家の死に様の信憑性は高いと思います。
まとめ
源頼家は北条氏から見ると暗愚な将軍のようなイメージにされていますが、実際は中々の人物でこのままにしておくと頼家の政治介入は強まり、北条氏の思いのままにはならないだけでなく、比企氏に権力の座も奪われるという危機感が強く出てきていたのでしょう。
どんな手を使ってでも比企一族および頼家は排除しなければならなかった北条氏にとって必然的に起こった事件だったように思います。