「甲斐の虎」の後継となるはずだった男?
「武田信玄」の嫡男「武田義信」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「武田義信」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「武田義信(たけだ よしのぶ)」とは?簡単に説明
「武田義信」は、甲斐の虎とも称される「武田信玄」の嫡男にあたる人物です。
元服後に同盟を結んでいた「今川義元(いまがわ よしもと)」より娘を娶り、さらには、武田氏で初めて、室町幕府将軍「足利義藤/義輝(あしかが よしふじ/よしてる)」より「義」の字を与えられ「義信」と名乗りました。
天文23年(1554年)に初陣を飾りますが、反乱の鎮圧や城の攻略、落武者300人を討ち取るなど大きな戦功を挙げます。
永禄元年(1558年)に父「信玄」が信濃守護に任命されると共に、「武田義信」は准三管領に任命されました。
「武田義信」の晩年と最期
永禄4年(1561年)の「第四次川中島の戦い」にも参戦し、凄まじい健闘を果たしたの記録があります。
「越後野志」によると、本陣で一息ついていた「上杉謙信」を「武田義信」が800人の兵たちと共に急襲しました。
不意を突かれた上杉勢は旗本の半数が敗走し、2人の老臣が討ち取られます。
「謙信」自身も家宝の槍を手に取って戦い、敗走寸前にまで追い込まれたようです。
このように、父「信玄」の跡継ぎとして、頼もしい活躍を見せた「武田義信」ですが、永禄8年(1565年)の10月、「信玄」暗殺を企んだことを咎められ、東光寺へと幽閉されてしまいます。
そして、2年後の永禄10年(1567年)の10月19日に、享年30歳で自害します。
「武田義信」の死に様の信憑性
武田氏の兵法を記録した「甲陽軍鑑」には「義信公御自害」との記述が見られます。
しかし、一方で、同書に記述されている「織田信長」の書状の内容には「信玄」による「武田義信」毒殺をのほめかす文章もあるようです。
義信事件
「武田義信」が処罰されるきっかけとなった「信玄」暗殺計画ですが、「武田義信」の世話役だった「飯富虎昌(おぶ とらまさ)」たちにより企てられました。
しかし、「虎昌」の弟の密告により計画が露見し、「虎昌」ら首謀者は処刑され、「武田義信」は幽閉となります。
当時、「信玄」は「桶狭間の戦い」による敗北で衰退の一途を辿っていた今川氏を見限り、侵攻を開始しようとしていました。
これに対し、今川氏の妻を持つ「武田義信」は激しく反発していたとされ、派閥争いが巻き起こっていたようです。
こうした背景が事件に発展した要因ではないかと考察されています。
まとめ
「武田義信」は「武田信玄」の嫡男であり、武田氏の跡継ぎとなるはずだった戦国武将です。
戦場において華々しい活躍を遂げるも、父「信玄」より謀反の疑いをかけられ、東光寺に幽閉された後、永禄10年(1567年)10月19日に自害します。
享年30歳でした。