この記事では、「伊藤野枝」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「伊藤野枝」とは?
「伊藤野枝」とは、日本の婦人解放運動の活動家として知られる人物です。
福岡県の貧しい家に生まれ、結婚しますが家制度に反発して婚家を出奔します。
上京して思いを寄せていた辻潤と同棲し、機関誌「青鞜」で次々と作品を発表しました。
それから平塚らいてうから「青鞜」の編集と発行を受け継ぎ、一般女性に誌面を解放しました。
しかし、無政府主義に傾倒し、「青鞜」の編集を一年あまりで放棄して廃刊してしまいます。
「伊藤野枝」の晩年
「伊藤野枝」は辻潤と正式に結婚し二児をもうけますが、無政府主義者の大杉栄と知り合い行動を共にするようになります。
野枝も無政府主義に傾倒しました。
家族を捨てて大杉と一緒に暮らすようになりますが、大杉には妻と神近市子という恋人がいます。
大杉をめぐって恋愛の四角関係が繰り広げられることになり、ついに市子が大杉を刺して重傷を負わせるという事件が発生しました。
市子は殺人未遂で刑務所に入り、大杉は内妻と別れて野枝と一緒になりました。
「青鞜」を廃刊したため原稿料がもらえず、大杉も市子から経済的に援助されていたため経済的には困窮します。
周囲からも批判された二人でしたが、野枝は長女を出産しました。
その後「文明批評」や「労働運動」などを二人で創刊しています。
「婦人労働者の覚醒」を執筆したり、結婚制度を否定する「自由母権の方へ」を発表するなど婦人解放運動に取り組みました。
「伊藤野枝」の死に様
「伊藤野枝」は1923年に突然憲兵隊に連行され、大杉栄と栄の甥と共に扼殺されてしまいます。
甘粕事件と呼ばれるもので、遺体は井戸に遺棄されました。
遺体には激しい暴行の跡が残っていたといいます。
野枝はまだ28歳という若さで亡くなります。
「伊藤野枝」の死に様の信憑性
「伊藤野枝」や大杉栄の殺害は憲兵隊いであった甘粕正彦が命令したもので、事件が発覚するとセンセーショナルなニュースとして伝えられました。
栄の甥でまだ6歳の子どもであった橘宗一までが殺されてしまったからです。
宗一はアメリカ国籍を有していたため、国際的な問題にもなりました。
軍法会議の結果、首謀者の甘粕正彦は懲役10年の刑が処せられています。
殺害した理由は、無政府主義者が関東大震災の混乱に乗じて騒動を起こすと信じていたからだとされます。
まとめ
「伊藤野枝」は婦人解放運動に取り組んでいましたが、突然憲兵隊に連行され扼殺されてしまいました。
享年28です。