「中村勘三郎(なかむらかんざぶろう)」とは?
中村勘三郎の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「中村勘三郎」とは?簡単に説明
中村勘三郎は、十七代目中村勘三郎の長男として生まれ、3歳の時に五代目中村勘九郎を名乗って初舞台を踏んでいます。
この中村勘九郎の名は子役時代から46年間名乗った前名のため、こちらの名の方に馴染みがある人の方が多いのではないかと思います。
1994年(平成6年)にはシアターコクーンで「コクーン歌舞伎」を初上演します。
また、2004年(平成16年)にはニューヨーク市リンカーンセンター内に「平成中村座」を設営して『夏祭浪花鑑』を上演しニューヨーカーを驚かせました。
「中村勘三郎」の晩年
1994年に「コクーン歌舞伎」をスタートさせ、これをきっかけに新しい作品を多く生み出していました。
2004年には「平成中村座」を作ってニューヨークやベルリンで公演、またNHK大河ドラマ「元禄繚乱」に主演で出演するなど、多方面で活躍する忙しい毎日を送っていました。
一方、2010年末に突発性難聴で活動を休止、2012年には食道がんが見つかるなどの体調面での不安も抱えながらの仕事ぶりだったようです。
「中村勘三郎」の死に様
2012年(平成24年)12月5日午前2時33分に人気歌舞伎役者の十八代目中村勘三郎が57歳の若さで亡くなりました。
死因は急性呼吸窮迫症候群(ARDS)でした。
勘三郎は2012年6月に初期の食道がんであることを公表し、7月27日に食道がんの摘出手術を受けています。
12時間に及ぶ大手術でしたが、手術は成功して来春以降の舞台復帰に向けて療養していました。
術後の経過は順調で病棟内を歩けるほどまで回復していました。
しかし、11月にウイルス感染による肺炎を発症してしまい、その後はさらに急性呼吸緊迫症候群や肺水腫まで発症し、肺炎による呼吸不全が進行するという事態に陥ります。
そのため、呼吸不全に対する専門的治療を求めて二度転院までするほど懸命に対応していましたが、無念のうちに亡くなったとのことです。
「中村勘三郎」の死に様の信憑性
中村勘三郎の場合は、がん治療中に肺炎を患ったことが直接の死因になったケースです。
食道がんを公表していたにもかかわらず、死因が急性呼吸緊迫症候群だったため、かなり戸惑った人や勘三郎の死に疑問を持った人も多くいたようです。
しかし、死に様に関しては上述した内容の通りで、これは妻の波野好江へのインタビューによって書かれた『中村勘三郎最期の131日―哲明さんと生きて』の内容や妻と2人の子らによって逝去後に発表されたコメントに基づいていますので、信憑性は限りなく高いものです。
まとめ
歌舞伎界を牽引する役目を担っていた重要な一人と目されていただけに、勘三郎の早逝は「大きな損失」と言われています。
歌舞伎だけではなく、映画、ドラマなど幅広く活躍しており、歌舞伎関係でも「コクーン歌舞伎」や「平成中村座」の立ち上げなど精力的な活動を行なっていることでも知られていただけに、57歳という早すぎる死は残念です。