この記事では、「長曾我部元親」や彼の晩年について解説していきます。
「長曾我部元親」とは?簡単に説明
長曾我部元親は、戦国時代と安土桃山時代に活躍した武将。
土佐国(今の高知県)から勢力を拡大し、四国平定を成し遂げた人物です。
幼少期の彼は実に軟弱で、しかも賢い様にも見えませんでした。
このため周囲からは全く期待されておらず、初陣にはせ参じたのも20歳を超えてからです。
しかし、この初陣で大きな成果を挙げて以降、彼は秘められていた非凡な能力を発揮し始めます。
頭角を現した彼は困難を極めていた四国平定を成し遂げた上、織田信長、豊臣秀吉と時の天下人にも抵抗し、乱世を戦い抜きました。
「長曾我部元親」の死に様
名君として知られてた長曾我部元親ですが、晩年は溺愛していた長男・信親の戦死により歯車が狂っていきます。
今でいう、ノイローゼに近い状態でしょうか。
愛息の死によって失意のどん底に叩き落された元親は、それまでとは打って変わり、頑迷固陋な暗君へと変わっていきます。
自身の後継者指名で揉めたり、家臣を安易に切腹させたりなど、彼らしからぬ振る舞いが目立ちました。
生涯の最期は、かなり突然訪れたようです。
秀吉の死後、日本が政情不安に苦しんでいた最中に病に伏し、しばらく後にこの世を去ったと言うことです。
死因については病死とだけありました。
公式には、1599年春ごろに体調を崩し、2か月から3か月後に亡くなったようです。
「長曾我部元親」の死に様の信憑性
死の直前に三男・親忠を幽閉するなど暴挙に出ていたため、反感を買って毒殺された、などとも考えられなくはないでしょう。
しかし、総合的に考えると、彼は病気によって自然死したとみて、間違いはなさそうです。
実際にリサーチしてみましたが、自然死以外の死因についての有力説はありません。
父の国親も病気によって急逝していることもあり、病死以外は考えにくいようです。
「長曾我部元親」の小ネタ等
信親の戦死以降は精彩を欠く場面が多く、晩年の振る舞いによる悪評もありますが、歴史に残るような功績も成し遂げています。
特に鯨を秀吉に献納した時のエピソードは有名です。
元親は浦戸湾でとった鯨を秀吉に献上しようと言うことで、船で大阪に運び、100名もの人出を使って大阪城に運び込んだのです。
流石に秀吉も、丸ごとの鯨を見たのは生れてはじめてですから、大いに驚いたのだとか。
もちろん、民衆もこぞって見物に訪れ、人だかりができたようです。
水族館もない時代ですから、この鯨が人々に与えた衝撃は想像するに難くありません。
まとめ
四国平定を成し遂げた名将・長曾我部元親の最期について紹介してきました。
死因は病死で、今は天甫寺山の森の中に、ひっそりとたたずむ墓に眠っています。
元親は人間味あふれるエピソードや戦上手のために、人気が高い武将の一人です。
小説やアニメなどにも数多く登場し、歴史愛好家の中でも彼のファンは珍しくありません。
何かと激動の人生でしたから、いつか、NHKの大河ドラマに描かれる可能性もあるのではないでしょうか。